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自己チューの進行形日記でshow。

古里ウォーク、岸和田。

2011年03月13日 | ちいさな旅。

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↑楠木正成が甥の和田高家に築かせたという岸和田城である。

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地域の公民館事業に参加した。イベント名は「古里ウォーク」。
古き良き里を訪ね先人の智恵と脈々と息づく人々の生活にふれ
私達の生活に役立てることが目的である。
今回で13回目。私は、全回参加しているのである。
今回は、大阪府岸和田市。都市であるが古里である。

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1619年(元和5年) 松平康重が入封。城下の整備が進んだ。

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その岸和田藩主松平康重の墓は、岸和田の町並みの中にある。

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天性寺蛸地蔵。城にあった矢傷、玉傷を負った地蔵を祀る。

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寺には「蛸地蔵縁起絵巻」が残され、住職による説明を聞いた。

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※天正年間、岸和田城は根来・雑賀衆に攻められ落城寸前で
あった。その時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸が
どこからともなく現れ、敵兵をなぎ倒し、城の危機を救ったと言う。
数日後、傷を負った地蔵が発見されたのだ。

※蛸は伝説であろうが人々の信仰は厚く、蛸を食べず願掛けする。

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南海蛸地蔵駅の駅舎には蛸地蔵縁起絵巻のステンドグラスも。

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岸城神社。創建1362年。今はだんじりが宮入りすることで有名だ。

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だんじり会館はだんじり祭りの魅力を一堂に集めた博物館である。

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※岸和田だんじり祭りは全国的に有名な祭りである。
この由来は、元禄14年(1701年)の9月。
時の藩主岡部長泰公が五穀豊穣・領民の安泰を願って、
京都伏見稲荷を勧請してから1703年、
9月26・27日の祭礼に庶民の参拝を許したのが始まり。
その頃のだんじりは、
太鼓打ちの老人が一人乗った神楽獅子台だったそうだ。

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岸和田だんじり発祥の地と伝えられる神社、三の丸神社である。

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現在も暮らしが息づく大正末期の和風建築、十六軒長屋である。

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大阪から堺・岸和田を経て和歌山に至る紀州街道には今も町屋。

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※その町にはそれぞれ歴史があり人々は脈々と生きている。
歴史が変わろうと人々はその町の歴史と風土の上で
次の歴史を刻んでいる。日本、いや世界全体が
その時々を為政者が誰であろうと、生活の営みを続けているのだ。
それが、その町の歴史に他ならない。

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五風荘。昭和の初め10年の歳月を要し造営された回遊式庭園。

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当時、新進の財閥として活躍したという寺田利吉が造った邸宅だ。

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3千坪の敷地には、3つの茶室、そして優美な回遊式庭園がある。

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※しかし、五風荘は施設の改修及び管理方法の変更に伴い
岸和田市の手から離れて、指定管理者として大手外食チェーンの
店舗にリニューアルされている。ここでも歴史の変遷を感じた。
でも岸和田は、先人の智恵と脈々と息づく人々の生活が
今に引き継がれていることを、この肌で感じたのである。

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岸和田城の天守閣から眺める「岸和田の街並み」。

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岸和田のシンボル「岸和田城」の全景。昭和29年再建。

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岸和田城の二の丸の芝生に寝そべって眺めた大空だ。

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※未曾有の被害のあった、東北地方太平洋沖地震。
被害に遭った地方・人々のことを考えるとこのイベントを
実施するかどうかを主催者は、考えた結果実施したのだ。
我が地方も揺れたが、被害は無かった。これを喜ぶべきか。
しかし、我が地方も30年以内には確実に大震災が起きるのだ。
歴史・古里・発展・大自然の摂理。私たちの未来は、、、。

コメント (2)
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