子どもの頃、覚え立ての「ハムエッグ」を、親や祖父母の目を盗み1人で作ろうとしたことがあった。グラタン皿を直火にかけてハムと卵を投入。「よし、いつも通り! 1人でも作れる!」と思った瞬間、「バリンッ!」と音を立ててグラタン皿が割れた。目の前の「惨劇」に呆然としていると、後ろから祖母が。問い詰められた凡師の言い訳は「えっ? 本当だ。割れてる! 誰かが来て割っていったのかな?」だった。小学校低学年頃の話だと思うのだが、40を前にして、今なお鮮明に覚えている。「失敗は成功のもと」というが、この失敗のおかげもあって、今では「年相応の言い訳」ができるようになった。(もちろんハムエッグ
も作れる。)
「失敗は成功のもと」と言われるが、ただ失敗を重ねても成功のもとにはならない。なぜ失敗したのか、この失敗を次にどうつなげるのか、よく噛みしめることで、失敗を成功のもとにできるのだ・・・、そんな事を『長男が袋を開けるのに失敗し、部屋中に散乱したポテトチップス』を見ながら思った。
「ホコリがついてるから食べないで!」という荒馬さんの目を盗み、「フッ!フッ!」と息を吹きかけてポテトを口に運ぶ「男2人衆」。失敗を噛みしめるためには、ホコリに負けるわけには行かない。誇りを捨てることも必要なのだ。
永眠後も出版続く、井上ひさし氏による読書感想文集。10年前の新聞連載分がまとめられ昨年出版。1編、1.200字で35冊分。感想の刺激的なこと。作者の価値観、世界観が正確かつ簡潔な言葉で表現されているからだ。読んだことのない本ばかり。
ちなみにこんな言葉… 「無方向な好機便乗態度(主義)」(「昭和天皇」ハーバート・ビックス著:講談社)、「顧客や株主、従業員の利益しか考えない『利害関係者重視型理念』会社は倒産危機に、地域や社会貢献を勘定に入れる『社会貢献重視型理念』会社は成長」(中小企業白書2003年度版:中小企業庁編)、「(平和主義の国民を戦争に向かわせるためには)国民を怯えさせる政治普遍性が必要…私たちは怯える前に相手をよく知らなければならない。怯えるのはそれからでも遅くはない」(「メディア・コントロール」言語学者ノーム・チョムスキー:集英社新書)。
最後に「藤沢さんの日の光」(「『蝉しぐれ』と藤沢周平の世界」)。お福と文四郎、最初で最後の密会の場面に「二人は思いをとげたんですね。つまり、二人は体を重ね合わせたんですね」(井上)の質問に、「さあ、わかりませんね」(藤沢)という「迷惑顔」の返事。「いやなことを訊いてしまったなと後悔したが、その後悔はいまも続いている」と書く。ここが一番、印象に。決して読んだ本のことだからではない。
閑話休題。友人が誤解されている時に、あの人はそんな人ではない、とどんな時も誰に対しても言えるかどうかが、友人のことを自分が本当に信頼しているかどうかの分かれ目だと思う。ぶれない精神の軸とはこんなことだ。「蝉しぐれ」で不遇の文四郎を励ます周囲を思い出して。
受験を間近に控えた生徒らが自分たちでスローガンを作ったことがあった。そのスローガンとは『最後まで 踏みとどまるぞ 崖っぷち。 みんなで着よう 第1志望の制服!』 教室にスローガンを貼った時、不思議と生徒たちの表情が柔らかくなり、ピリピリしがちな教室の空気が和んだのを覚えている。崖っぷちをみんなで歩ききったあの子らも今年は高3になる。このご時世、きっとまた「崖っぷち」や「デカイ山」が立ちはだかるだろう。でも、忘れないで欲しい。あきらめない気持ちと熱い思いがあれば、人は崖っぷちに橋を架けることだってできるのだ。
朝日新聞(道内版)に月1連載の「先生のつぶやき」。今月分【受験編】されなかった原稿。かなりのもんだと思うのだけれど…。まあ、なんやかんや面倒な大人の都合もあるのかもしれない。見比べてそう思う。
ipad使いの凡師は電話もiphone。ipadで作ったプレゼンテーション資料がそのままiphoneでも使えたり(iphoneとプロジェクターがあればプレゼンができる)、荒馬さんとのスケジュール共有等、凡師一家にシームレスな環境を実現している。また、以前使っていたiphoneや中古のipadを実家にプレゼントし、凡師一家と秋田の実家も繋いでみた。(隙間コラム40回参照)電話で話ながらの機器設定だったが、何とかクリア。今までは携帯電話の小さな画面でTV電話をしていたが、ipadやiphoneの大きな画面で、息子らの成長を見せることができた。
両親のお気に入りは、iphoneに詰め込んだ「うだっこ」。「うだっこ」とは秋田の方言で「歌」のこと。両親が持っている「懐メロCD」を全てiphoneに入れたので、曲数は1000曲を超えた。聴きたい曲を探すのも画面にタッチしスライドするだけ。1回1回CDを入れ替える必要もない。
タブレットやスマホのような機器は、若い人だけのものではない。昔若かった方々が、サッと胸元からスマホを出し、指でスッスッ。その姿に「粋だねぇ」と感じるのは凡師だけだろうか。
昔、教科書で強く印象に残った小説「神馬」の作者による随想集。中に、「ジンメかシンメか」かがあり驚いた。立男は授業で「シンメ」と読ませ、作者は「ジンメ」のつもりで書いていた」とあったからだ。同時に、「シンメ、あるいはジンメと読まれたにしても、神社に奉納する馬という意味は伝わっているだろうからさほど心配していない」ともあった。
どちらの読み方でも良い例に、能筆の藤原行成の「ユキナリ」と「コウゼイ」を挙げている。驚きは「日本」だ。「ニッポン」なのか「ニホン」なのか。ことは祖国の読み方だから、どちらでも良いわけは無いだろう、と思った…が、国号の読み方に法的根拠や国家的統一はないそうだ。つまりどちらでも良いのだ。「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」、「日本永代蔵」と「日本書紀」…なるほど違う!「緊張して使う時はニッポン、気をゆるめればニホンでいいんだよ」(臼井吉見談)に納得。私を、ワタクシとワタシみたいなもんなんだ。ママヨさんに話したら、前から知っていたと言う。昔から彼女は辞書をひくのを厭わない。
「一日に一度だけでもよい。言葉で生きる人間を意識する時間を持ちたい。日常の言葉遣いが社会生活の基盤となる」ことを、具体的例で親切に考えさせてくれる。80題250ページの随想集。もっと前に読みたかったと思ったが、「教室だけが国語の時間ではない」という作者の言で、教える側でなく、学ぶ側として言葉に接していきたいものだと思った。久しぶりに、読了の惜しい本。
「狂響記」(弦月著:講談社)「奥底の官能エロス短編小説集。恍惚、錯乱、羞恥…そのすべては日常に潜んでいる」(帯より)と、これでどうだのエロスの乱舞。何だかやたら疲れる。エロスの奥底に何も描かれていないのがやりきれない。「国語の時間」と併読したが、もう君には無駄な読書の時間は無いんだよ、を実感させてくれた貴重な一冊。
厳寒に居間のアマリリスが咲いた。高さ50㎝ほどの茎に、経20㎝の朱色の大輪4つ。まるで四方に開く消防署のサイレンだ。 ♪ アマリリスは金持ちだ、金蔵建てて倉建てた~と歌うと、ママヨさんが必ず「ヤメテクダサイ」とチャチャを入れる。豪華だが気持ち悪い、命の必死さを思うとけなげな花。