この骨はなんて堂々と歩いているのだろう、前を向き肩を怒らせているが姿勢正しく、拳握り確かな一歩を踏んでいる。こんな字を書きたいなあ。死に体の『骨』でなく、「生きたい」の骨格。明るく元気な骨がある嬉しさ。
少し前まで、いつ逝っても未練無しと思っていた波風氏。10年前に逝く予想(予定では無い)だった。心残りは、身辺雑多な始末と、ママヨさんのパソコン操作手助けと、周り順と思いつつ葬式埋葬の面倒。
老い先が、身も心をも衰え普通の暮らしができなくなり、暗さと辛さしか思い浮かばなかったからだ。世の老人は、何が楽しくて生きているのかな、死なないから生きているのかなあ、なんて不埒なことを考えることもあった。
それが変わった。まだ完全老人の域にないから確定できないが、ちょっとした親切や思いやりを俄然感じるようになり、老人には老人の幸福感を発見。人間の嫌なところも、許せるのと許せないの境界が前者側に少しズレて、波風立男から凪風寝男(ナギカゼネルオ)になってきたかも、なのだ。この変化は、人生は思いのほか面白いかも、の発見。『幸せ』は、簡単に解決できない悲しみ辛さの最中でも、人間性しだいだが受け取り可能な価値。明日、そんな幸せに出合えるかもしれないなあ、という気持ちが幸せの本体というか本質かもなあ。そんな明日が来るのを楽しみにできる人生ってなんか良くない?
画像の『骨』は、開く度にワクワクするエッセーと書の緒形拳著『恋慕渇仰』(れんぼかつごう)から。緒形さんはかっこいいなあと波風氏が思う一人。思いつくもう一人は、伊丹十三さんかな 友人はいたが自分が読んだ本のことを話すせる友人はいなかった。それまで読んだ中で一番感動した本のことを話したら相手も同じ本だった。パールバック『大地』、18歳の立男君とママヨさん。