教職志望の学生に、最初の授業で「学校は誰が何の目的で作ったのか?」を必ず聞いていた。そんなことを思い出した「折々のことば」(10/17朝日朝刊)。答えが出たところで、「では、そういう学校がどうして庶民の子どもたちが通えるようになったのだろう?」が次の質問だ。
もともと『学校』は平等なチャンスを与えるために始まったわけではない。その正反対だ。だが人間は、完全に「チャンスの配分を独占」する出発点から少しづつ少しづつ、行きつ戻りつ、チャンスの平等に近づけてきた。だが完全に平等ではないから、まだ「独占」状態だと言える。「教育を消費サービスと考える趨勢に抗う」はまことに同感。
このコラムを読んでいた朝、前述の授業を目を輝かせて参加し今は臨時教員の学生から教員採用試験合格の報。平等なチャンスを与える学校は、こんな方向からも作られていくのだろう、と明るい気持ちに。
晩秋の晴れ間に、家の周りの片付け。大きく重い柱(もとは水産加工場の梁)、丸太などをブルーシートで被い、もう使えない資材120キロを最終処分場へ捨てに行った。「重たい物は一人で持たない」とママヨサンに叱られるのも少し嬉しい年寄りの冷や水。9時間熟睡留守の間に手作りコンビーフが玄関に。旨そうだがどなたのご親切だろう? 隣人招き「波風食堂」初のお茶会。非日常の空間に身を置く楽しさ。