波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

言葉のケイコ【その四拾弐】

2020年07月14日 | 【保管】言葉のケイコ


子供はどうしてわかってあげない?
(上)


風先生から漫画を借りた。田島列島さんの『子供はわかってあげない』(講談社)。読書交流会で「ほっこりする」と話題になったので、ほっこりしたくて借りる。確かに、評判通り。高2の少女サクタさんと少年もじくんの、ひと夏の成長物語。それぞれなかなかに複雑な事情を抱えた家庭環境だし、高校生活もそれなりに山あり谷ありなのだが、全く心が苦しくなる瞬間がない。イラストもほんわかしているし、お話全体の雰囲気が柔らかいのできっと誰もが読みやすい漫画だろう。主人公の少女が、実の父親を探して会いに行くことが話のメイン。それに様々な人間ドラマが絡む。最後まで読んで存分に「ほっこり」した後、さてでは、と私は思う。タイトルの『子供はわかってあげない』とはどういう意味だろうかと。そこで、視点を変えてもう一度読んでみる。主人公を、サクタさんではなく、サクタさんが父親探しを依頼した探偵の明ちゃんに置き換えて。すると、少し景色が変わった。

ちゃんは、もじくんのお兄さんで町の探偵。商店街の古本屋に間借りしている。探偵業務はほぼ商店街の雑用。そんな明ちゃんは、見た目は女性。読んでいくと、おそらくトランスジェンダーだと推察される。けれどそこにスポットが当てられることはほぼない。淡々と話が進む中で、ではなぜ明ちゃんはトランスジェンダーとして登場してきたのか疑問に思う。話の内容を考えると、お兄さんのままでも、別に最初からお姉さんでもよかった。なぜ、「お兄ちゃんだけど見た目は女」として描かれたのだろうか。(来週火曜日の下に続く)


【波風氏談】マンガには「これはあなたの感情でしょう?」と迫まってくる作品がある。ひりひりするストレートでだったり、湿った情感で包み込むようなのがある。百冊の小説より一冊のそれが忘れられない印象を残すのだ。本作『子供はわかってあげない』はそのどちらでもないが妙に気になるところはあるなあ。

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『熱源』を読む。

2020年07月12日 | 読書


史小説『熱源』(川越宗一著:文芸春秋社)読む。明治維新後のアイヌ民族に起きたことを、縦軸に近現代の世界史、横軸に樺太、北海道、日本、ロシア、ポーランド、そして南極までを舞台に展開。
晴れた日に当地から島影の見えるサハリン(樺太)について今まで何も知らず、関心も持たずに過ごしてきたことをあらためて知った読書体験。

代の転換点に対峙した人々の圧倒的な「熱源」に引きずられ、400頁強を苦労せず3日で読む。カタカナ読みの人名にはいつものように閉口するが、民俗学者のユゼフ・ピウスツキ、金田一京助、白瀬矗、大隈重信、二葉亭四迷などの実在人物と樺太出身アイヌとの関係が圧倒的なドラマにより無理なく描かれ最後まで興味失せなかった。文明と文化の関連と違いが本書の主題のひとつだと思うが、小難しい理屈を並べず平易に読ませるところが直木賞作品なんだろう。

イヌ語で「アイヌ」とは人という意味を初めて知る。こんな基本的なことも知らず聞いたことも無くそれを恥ずかしいとも思わないで過ごしてきた波風氏の文化観・文明観の底の浅さ。今日、白老町に初の国立『民族共生象徴空間』(愛称・ウポポイ)公開。「存続の危機にある先住民族アイヌの文化の復興・発展を目指す」というスローガン、この小説を読む前と後では感じ方が違ってくる。アイヌ差別を「価値観の違い」と発言しその後に差別が歴史的事実だと修正した文科大臣の話が今日の新聞に載っているが、アイヌを巡る歴史観も未だこれぐらいでしかないのだ。


家の前に新しく庭を造ろうと晴れたら1日30分だけ穴を掘り先週末終えた。3週間かかったが続ければいつか終わる。また数日かけて土を入れる。来年、実る苺を想像しながら 吉本隆明著『共同幻想論』のテキスト(NHK「100分de名著」読み、学生時代に「さっぱりわからんのは作者が変だからだ」と思ったが、やっぱりそうだったかと半世紀後に安心する(笑)。

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言葉のケイコ【その四拾壱】

2020年07月07日 | 【保管】言葉のケイコ

 

 魅惑のチーズケーキ


はチーズが好きだ。チーズを使っている食べ物はだいたい美味しいと思う。だからチーズケーキも大好き。ほわほわのスフレ、どっしりとしたベイクド、なめらかレアチーズなど、種類も豊富なのがまたいい。最近出てきたバスクチーズケーキを食べたときは、その美味しさのあまり感動で全身が震えた。できるならば毎日でも食べたいが、悲しいかな私は絶賛ダイエット中。チーズケーキどころか、甘い物全般に制限をかけている。それでもたまには食べたいと思うのが乙女心。理性と欲望の戦いに明け暮れる日々。そんなある日、波風家にてママヨさん手作りのチーズケーキをいただいた。私の好きなベイクドタイプ。ものすごく美味しかった。ママヨさんは、「クリームチーズの箱に書いてあるレシピ通りに作っただけ」と笑うが、私にとってはまさに魅惑のチーズケーキ。愛情たっぷりの手作りのものを、誰かと一緒に食べるときはなぜ罪悪感が薄まるのだろう。頑張っていることへのご褒美感が増すからだろうか。

で「食べたいと思ったときは、身体がそれを必要なとき」と読んだことがある。けれどそうなると私は絶えず身体が甘い物を必要としてしまうので、我慢もちゃんとする。ただ、身体というより心が甘い物を必要とするときがある。だから、私はたまに自分を甘やかす。目の前にニンジンが必要な人もいるのさ。いつか目標の体重まで到達したら、魅惑のチーズケーキをホールごとママヨさんに食べさせてもらおうと思っていることは、ここだけの話(笑)


【波風氏談】前回のケイコブログの連載回数を間違えていたので直した。記念すべきキリ番「四拾」をどうしたわけか「三拾柒」にしてしまった。ケイコさんにお詫びいたします。なお、漢数字にしているのは、最初号を「その壱」と何となく書いてしまったからです。コメさんの34回を突破しましたので、腹ペコサンの154回、一寸凡師さんの311回を是非突破してくださいね。

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「お疲れ様です」は使わない

2020年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム

事上のやりとりがほぼメールという職場にいた頃、必ず「お疲れ様です」を冠して送ってくる方がいた。夕方ならまだしも午前にもこれだから次第に嫌な気持ちがした。俺の何をわかっているのかなあ?あなたは疲れているかもしれないが俺は違うよ、どういう気持ちでこういう言葉を使うのか?といつも違和感が残った。

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の記憶を思い出したのは、今朝の新聞(7/4朝日新聞 オピニオン面)掲載の『「お疲れ様です」考』からだ。違和感持った論者に対し3人の方が賛否述べている。中に「仲間意識を表現できる・・・わたしもあなたもがんばっているという連帯感・・・みんながんばっているという社会通念、周囲に配慮してこそまっとう、何か声をかけることが良いコミニケーションだという思いが要因」というのがあり得心。波風氏の違和感は、仕事の文章でさほど親しくないのにコミニケーションを押しつけられるような感じがしたからだ。偏屈承知で、少し変な感じがするとメールしたら、初めて言われましたと返信が来てその後は「こんにちは」に変わった。

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な感じの別の理由は、紋切り型の言葉づかいだ。「決まり切った、杓子定規の言い方で労力を節約」してコミニケーションを取ろうとする雑っぽさを感じたからだ。この話題で昨日読んでいた『井上ひさし発掘エッしセレクション 社会とことば』(岩波書店)を思い出した。結局、ねぎらってもらう関係の薄い方から心に響かない言葉で声をかけられるのは世渡りの常道だが、こういう無駄な言葉を嫌な人間もいるのだ。
穴掘り作業した昨日、ママヨさんから「お疲れ様です」と言われた。身体に疲れは残っていたが心はこの言葉に反応し晴れ晴れした。


画像は最近の工作「生ゴミ水切りネット 蛇口管理用設置具」。市販品の吸盤が駄目になりステンレスのバンド(裏にゴム板巻き付け)、ネットの土台に木片使用、土台がしっかりし使いやすさ向上今日、手作りうどん教える。3年目にしてついに師匠・・・ 公式裏ブログを『お買い物のレベル(最終3)』で今更新しました。

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