波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

背伸びのモノ

2024年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

こだわり方が、波風氏の好みに重なる中川政治七商店。商品一つ一つに物語り持たせるのが売り、カタログだけでも楽しい。古くからある試され済みの素材を、流行に流されないデザインで勝負している。だから年齢に関係無いモノだらけ。試しに、というわけでもないが肘当てのついたTシャツをプレゼント用に買う。いつものTシャツより高価だが、手にして「これならこれぐらいだろうなあ」と、背伸びした買い物を自分で納得。

一緒に送られてきた22頁の宣伝誌が気持ち良かった。「100年後に残したい、つながる風景」として『お茶の時間』と『土鍋を囲んでつながる時間』の特集。今は跡形も無いが、無印の人と人との温もりを刺激したデザインセンス思い出す。日常の見慣れたモノをデザイン化して新しさを想像させるのでなく、古いモノをデザイン化して新しい懐かしさを創造する安心感。この表紙、作為の無さを色と形と線で実にあざとく打ち出している。ありそうで無かった商品構成の幅広さと売り方、時には贅沢してみるかと思えるのならこの国は未だもつかもしれない。カタログにある雛人形が欲しい・・・・買えなくても見てみたい、と古稀を過ぎた老人に思わせるのはなかなか。シャツと茶碗と新茶と雛人形が並んで売られている商店紹介。


タイトルは市川雷蔵主演『忍びの者』にかけている。身の丈考えない言動を『背伸びの者』と名付けよう(笑)肉欲から解放してくれた老齢に感謝すると言う人がいるが私は違う、から始まるモンテーニュ著『老齢は強力な病気』。性欲への挑戦的な言葉をインフルワクチン接種待つ間に読み「この人、何歳?」と思ったら享年59歳。500年前の老人は若いわ。

コメント

糸偏に触れる

2024年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 

ぎも繕うも身体的な気分を醸す漢字だ。針で布の端を刺して糸を次々に繰っていく手仕事が継ぎ。片方の布と別の布が糸を使ってだんだんと分け隔てない関係になり、綻びていた(糸編に定のつくり!)モノが何だかワクワクするモノに変わる。こういう手仕事の『繕い』という言葉はなんて善意ある言葉なんだろう。糸による善いものとも、針仕事の尊さとも。囲炉裏端、肌電球、大鍋、太くたくましい指先、姉さん被り、朝早い畑仕事、そしてささやかな幸せ。

 

仕事は嫌いじゃない。調理に次いで興味あるかもなあ。もとから糸と糸が織りなす布が好き。男が家事から遠ざけられていたのは男女差別。正しい運針を教えて貰おうと思わないが、指抜き使い一針一針やっていると気分がしーんとしてくる。ママヨさんがパッチワークやる気持ちを思ったりする。


画像は、四半世紀前からのお気に入りのパーカー、袖口の擦り切れを折り込んだので曲線状。捨てる直前だった。意思的に繕い続けるモノにしてみたいアメリカ大統領選、『日本州』じゃあるまいし何をそんなに騒ぐ、我が国の脆弱な自立度実感。それとつながるなあと我が国民度を政権選択選挙結果と重ねて思ったりする。

コメント

楽な本読みで

2024年11月08日 | 読書

この頃読んで積んだ本の背表紙眺めたら、どれも昭和の読み物や映画監督の評伝。ドキドキやワクワクは無いけれど、煎餅に番茶で一息つける安心安楽読書。ドラマの王道はホームドラマ、この歳になって思う。白黒の古臭い映画と思って観た小津安二郎監督『東京物語』が、途中から目が離せなくなりなにこれ、すごいなになった。それから同監督のを数本観た。平面的でモダンな抽象絵画(例えば縦横直線と矩形配色のモンドリアン)みたいな舞台構成、感情を抑えた能みたいな演技、些末な日常をドラマにして卑しさの反対極。ここらの感想確かめたくて、中野翠著『小津ごのみ』読む。

 

人生はささやかな出来事の連続で、そういう暮らしを愛しく感じることが人生の肯定。色々あったけど今が一番いいんだ。これでもましな方なんだ(他と比べたり先の不安を想像しても仕方ない)と映画の台詞みたいに思う最近。その気分に沿うような本を選んでいた。危うさの只中なのに妙に平穏な日常家庭描く庄野順三著『プールサイド小景』、こんな暮らし方でもOKなんだとクスクス笑ってしまう木山小捷平著『駄目も目である』、違う人生観なのに真実味ある巧みさで一編一編に共感させられるエッセー集『老いの生き方』(鶴見俊輔編)。

 

共通しているのは、読んで疲れず、昭和で、自分みたいな平凡人が主人公なこと。
昭和時代を3つに分けたら中間で生まれた波風氏の幼少期ごろに書かれた小説と映画。戦後間もないのに味のある時代だったんだなあ。今に残っているのは(1904生~1968没の作者による『駄目も目である』は今年10月に初文庫化)、古くならないから。人類存続する限り残らなくては悲しい人生の機微を淡々と描きながら読者を、「こんな私でもこの世界の片隅にいていいんですね」といつの時代でも安心させてくれる、古いのに読み続けられる新しさがある。波風氏には「昭和文学」に戻ったのでなく、新しく入り込んだ読書世界。この楽しみしばらく続きそう。


ここに載せた本は亡くなったら処分されるだろうが、縁続きが読んでくれたらなんて思う 今日でスクワット63回、朝夕30回づつを朝昼夕20回づつなら100回までは何とか冬囲い終わり除雪道具を風除室に持ってきたら次の日が雪積もり日。笑う  文学史や流行に追従する本選びも悪くないが、今までの読書体験で「亡くなるまで手元にある(はず)」の個人的持ち出し禁止本を起点に選書して読書続けられるのは大きな老後財産。

コメント

『モノ語り』を続けたりする

2024年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム

(前回からの延長 だがあまり考えずに続けてみる)
モノを語ることは、手に入れて嬉しかったり逆に切なかった思い出を語ること。高齢者になったら買いたいものは暮らしに本当に必要なモノに絞られ、安物買いの銭失いに懲りた裏返しで、新商品はたいがい疑がい、必要なんだから買えばよいのに朝方の小便みたくギリギリまで我慢する。少しはましなモノをと思うがこれが難しい。お金の使い方も生きて来た環境と練習が必要なのだ。

若い時は、働いたお金で電気製品を1個づつ増やしたり、狭い住宅なのに大きな家具を買ったりして悦に入り、一人前になったような気分だった。スーパーやデパートの光に照らされ棚から溢れ出るような商品は見るだけで楽しく安物でも何かを買えることが嬉しかった。お金やモノじゃないよ、大事なのは心だよと思ったりしたが消費文化に隅々まで管理される奇妙な人工的幸福感の押し付けを恐れても、そう思う批判精神があるならまだ大丈夫だと信じていた。そのころのモノは少しの家具を除いてほぼ捨て、作ったモノが下手くそなのに残っているのは何を意味するのだろう。(長くなったのでここで切る 納得できる続きが書けたら嬉しいな)


画像は、ベニヤの切れ端とボンゴピンで作ったダイヤモンドゲーム。小さかった子どもたちが真剣に遊んでいたなあ。ママヨさん作のはず高知県の教員採用試験合格者の7割が辞退のニュース。数年前まで5倍、10倍が普通だった難関試験が・・・。「教師の勤務条件=子どもたちの教育条件」だから、この国は刻々と滅びている。「生きがい・働きがいの持てない先生=わからなく・楽しくない子どもたち」の群れ。先生は仕事を絞って自衛し、子どもは行かずに自分を守る。子どもと先生の生きがいの共有がどうなっているのかとても心配する。

コメント

『モノ語り』を語ったりする

2024年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

遅い朝食をとり、「この頃、ブログを書いてないなあ」とスマホを見る、菓子の空き箱、使わなくなった裁縫箱が載っていた。書くまで時間がかかり更新すると読み直さないのが波風氏。終わった満足感と、自分の文章を読むのは何だか気恥ずかしい。面白いなあは滅多に無く、参ったなあこんなこと書いているなのだ。
さて、この間のブログに載せた箱物はどれも使い終わってから新しい使命を与えられて喜んでいるよう。そう波風氏は自己満足に浸る。使い切るというか使い倒す満足感が気持ちいい。

過度な消費の軽薄な暮らしの中で、正常なモノ感覚を一時だが取り戻したりする。昔の人が、手の平大の使い込んだ布を寄せ集めた(今でいうパッチワーク)ボロの着物やボロの布団、節約精神以上に生きる時間というか生きる必死さが紡ぎ込まれた異次元のモノに仰天する。まだ本物は見たことないが、画像だけでも脳天直撃のカメハメ波的衝撃。(次回に続く と思う)


画像は小松菜の後に種を蒔いたら大きくなってくれた秋大根。12本取れた。ちびた奴を福神漬けにした。レンコン茹で銀杏切りにした大根と茄子に醤油の調味料を加えた。来週食べられる。貰った秋刀魚も、大根おろしも旨かった こんな緩やかな世界にこんなに可笑しく生きている、『駄目も目である』(木山捷平著:ちくま文庫)を読みママヨさんとくすくす笑う。耳かきが必要で街にでかけその度に友だちと酒を飲み泊まったりもする。出かけると言うと、奥さんが「耳かきですか」と返す5年間(「耳かき抄」)。飄々とした話は好きだなあ。

コメント