電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

井上栄『感染症の時代』を読む〜その(2)

2020年05月11日 06時01分04秒 | -ノンフィクション
第6章の感染症サーベイランス体制は、疾患を重要性・緊急度により区分けをして、全数届け出と定点報告に分けるほか、食品や動物や環境なども監視体制に組み込み、保健所を通じて横断的に網羅し、衛生研究所や都道府県衛生部等を介して中央感染症情報センターに集約されます。これはこれで、仕組みとしてはよくできていると感じます。ところが、現在の新しい感染症の大流行にうまく対処できていないように感じられるのはなぜか。おそらくそれは、この感染症サーベイランスの仕組みの中核となる保健所の機能が、これまでの施策によって少しずつ弱体化してきているのではないか。

国の仕事を県に移管し、県の仕事が中核都市に移管し、保健所の業務は増えているはずです。一方で専門的力量を持つ有資格職員は一朝一夕には増やせない。一般的な事務職員を増やしても保健所の能力は向上しない。情報化等を理由に職員数を抑制し省力化を目指せば、日常業務で精一杯となり、新たな感染症の突発にうまく対応できないのではなかろうか。PCR 検査体制の拡充が思うように進まないのも、たぶん予算と人事の権限を握る官僚制がもたらした弊害の面もあるのだろうと思います。

第7章は、梅毒とエイズを例に、性感染症対策の難しさが感じられ、第8章で麻薬の問題が感染症対策の一環として論じられるのも、麻薬と性感染症が一体のものとして広がる現状を表しているのだろうと理解しました。

終章で指摘されている21世紀日本の感染症対策への視点は、今更のように納得できるものです。海外渡航者の感染症、インフルエンザと肺炎対策、院内感染など、「新型コロナ」の「コ」の字も出てこないけれど、まるで未来を予測したかのような項目が並びます。

身近なところでは、役場も市役所も県庁も数年で担当業務が代わります。癒着を防止し、なんでもできる総合的な人材育成をすることが大切だという行政的視点は重要なものでしょうけれど、お役所の予算と人事を担当する人たちが人々の生活に直接に関わる professional work を経済合理性の観点から査定し、結果的に機能を限定させてしまうのはどうなのだろう。 専門家を専門家として遇するのではなく、都合の良い時だけ専門家を表に出して弾除けに使うとしたら、それは明治維新で士族が官僚となり(*1)、農工商に属する技術者を下に見た旧弊が今も継続しているかのように見えてしまいます。

いや、問題はそんなところにはなくて、政治家のリーダーシップが問題だとか外国の元首の招待や国際的スポーツ大会開催への思惑だとか、はては某ナントカの陰謀論だとか、いろいろな見方が可能かとは思います(*2)が、とりあえず本書を読んで身近なところから抱いた素朴な感想でした。

(*1):明治初期の学生たちの大半は士族だった〜「電網郊外散歩道」2014年11月
(*2):ドイツのメルケルさんはすごいですね。あのスピーチが歴史に残るかどうかは不明ですが、間違いなく心に残ります。〜ドイツ大使館のCOVID19に関するメルケル首相のスピーチ集より

コメント (2)

井上栄『感染症の時代』を読む〜その(1)

2020年05月10日 06時01分30秒 | -ノンフィクション
新型コロナウィルス感染の流行が続いていることから、感染症やその対策に関する概観を得ようと書棚を探したところ、井上栄著『感染症の時代』という講談社現代新書を見つけました。「エイズ、O157、結核から麻薬まで」という副題を持ち、2000年10月に刊行されたものですので、当然のことながら、新型コロナウィルスのことは登場しません。「おや? どうして感染症と麻薬が同じくくりなの?」という疑問は持ちつつ、読み始めました。

本書の構成は次のとおりです。

序章 変貌する感染症
第1章 文明と伝染病
第2章 病原微生物の発見
第3章 伝染病の重症化と軽症化
第4章 伝染病以外の感染症
第5章 ワクチン
第6章 感染症のサーベイランス
第7章 真の文明伝染病―梅毒とエイズ
第8章 「伝染病」としての麻薬中毒
終章 二十一世紀日本の感染症とその対策

内容は、たいへん興味深いものです。例えば第1章では、アステカ文明の崩壊とスペイン人が持ち込んだ天然痘との関係や、平城京・藤原京は伝染病の流行によって都を遷したこと、大都市であった江戸における麻疹の流行と土着化など、歴史的な視点が説得力があります。

第2章は、子供時代にド・クライフ『微生物の狩人』を愛読した当方にとってはおなじみの内容で、むしろ第3章の「伝染病が重症化したり軽症化したりする理由」が興味深いところです。これによれば、人間の歴史の中で「人が密集して居住する古代都市ができたとき、あるいは産業革命時の労働者の寮の中で、また戦争をしている軍隊の中で、伝染病の強毒化が起こった」のだろう、ということです。

強毒性の病原体は、その宿主が死んでしまうと他に感染して増殖することができないため、人口密度の小さな(うつりにくい)条件下では症状が軽く動き回って感染を広げる弱毒性のものが生き残りやすい=弱毒化する。ところが都市化により人々が密集して生活する中で感染が容易になれば、増殖が速く病原性が強い強毒株が優勢になり、強毒化する、ということです。

なるほど、そのように考えると、どこか奥地の風土病にすぎなかった病気が文明国の大都市に持ち込まれたことで凶悪化し、恐怖の感染症として騒動になる、という事態がよくわかります。

第4章は、動物由来の感染症や食中毒などを取り上げます。かつて人間が動物を家畜化した際に、家畜の病気であったものがヒトに感染し、人間の病気になったものがあるとのこと。野生動物の病原体が人間社会に大きな問題を引き起こすというのは、昨今の事態を見ているとよくわかります。と同時に、第5章のワクチンの話とあわせ考える時、なぜ牛痘の膿を人間に植え付けると天然痘が軽くて済み、あるいは予防できるのか、という理由も推測できそうです。

つまり、もともとは牛の病気であった牛痘が牛の家畜化とともにヒトに感染し、人間社会の都市化に伴い、強毒化して天然痘となったため、元の弱毒株である牛痘を用いて免疫を作っておけば、強毒株が引き起こす天然痘を予防することができる、ということなのでしょう。

(明日に続く)
コメント (2)

宮田親平『愛国心を裏切られた天才』を読む

2020年03月02日 06時01分20秒 | -ノンフィクション
だいぶ前に購入していた朝日文庫で、宮田親平著『愛国心を裏切られた天才〜ノーベル賞科学者ハーバーの栄光と悲劇』を読み終えました。空中窒素を固定しアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法を開発した功績でノーベル賞を受賞した化学者ですが、夫の毒ガス研究を嫌って妻が自殺したというようなエピソードは断片的に承知しておりました。けれども、まとまった伝記的な書物は見たことがなく、たいへん興味深く読みました。

本書の構成は次のとおりです。

    プロローグ
  1. 生い立ち
  2. 挫折と苦闘の日々
  3. 陽の当たる場所へ
  4. 空中窒素固定法の成功
  5. 家庭崩壊の兆し
  6. 毒ガス戦の先頭に立つ
  7. 死の抗議と第二のロマンス
  8. 敗戦と逃亡
  9. ノーベル賞、星基金、チクロンB
  10. 海水から金を採取せよ
  11. 日本訪問
  12. 報酬は国外追放
  13. 最愛の国家に裏切られて
    エピローグ

1868年にプロイセンのユダヤ系の両親のもとに生まれたフリッツ・ハーバーは、産後の不良のために生母を亡くし、勤勉な父と聡明な継母と兄たちからなる家族の中で育ちます。上昇機運にあった家業は染色業でしたので、自宅や織物倉庫を実験室として化学に親しみます。父ジークフリートはフリッツを取引関係のあった染料商に弟子入りさせますが、うまくいきません。叔父と継母の応援もあって、ベルリン大学へ、後にハイデルベルグ大学のブンゼンの下に学び、軍務についた後、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学に編入し、有機化学で学位を得ます。しかし、尊敬するオストワルドの下で研究をするという望みは叶わず、醸造会社や肥料会社に職を求め、実務経験を経た後に、スイスのチューリヒ工科大学を経て父の染料会社に入りますが、父子相克があきらかとなり、イエナ大学からカールスルーエ工科大学の無給助手として採用されることとなります。このあたりは、ユダヤ人の出自が不利に働いた面が強かったようで、キリスト教に改宗し、本物の「ドイツ人」として社会に溶け込もうとしたようです。

カールスルーエでは炭化水素の熱分解に関する実験的研究により物理化学的な解釈を行い、高い評価を受け注目を集めて、無給助手からようやく私講師の地位を得ることとなります。このあたりの経緯から、先生が弟子を推薦し道を開いてやるというような様子が見られず、おそらくハーバーは先生に可愛がられるタイプではなく、「一匹狼」に近い存在だったのではなかろうかと想像されます。その気質は、逆に独創的な発想を生み、本来の専門分野である有機化学に電気化学を結びつけて、ニトロベンゼンを電解還元しアニリンを製造するという技術的成果(*1)を生み出します。同時に、フライブルグで行われた学会で、かつて想いを寄せ、今は女性化学者となっていたクララ・インマーヴァーと再会し、同様にユダヤ系であった二人は結婚します。しかし、幸福な結婚生活も、長男ヘルマンの誕生と育児はクララの肩にのしかかり、夫フリッツは研究一筋の多忙な生活に追われるばかりで、妻自身の持つ化学者としての希望を助けようとしてはくれません。

19世紀末から20世紀の初頭、窒素肥料の欠乏は飢餓を招く重大な問題でした。多くの化学者が、水を分解して得られる水素と空気中の窒素とを原料としてアンモニアを合成する方法に取り組んでいましたが、当時は誰も成功していませんでした。原料としての水素と窒素は、生成物としてのアンモニアと平衡状態にあるとき、アンモニアの生成の方に平衡を移動させるにはどうするか? というのは、化学平衡に関する高校化学の代表的なテーマです。実は、ハーバーが取り組んだのはまさしくこの問題であり、温度、圧力、そして触媒というのが結論でした。実用化にはBASF社の技術者であるボッシュが引き継ぎ、鉄が触媒として優れていることを発見し、工業化を実現したため、現在はハーバー・ボッシュ法と呼ばれている、というわけです。

夫フリッツ・ハーバーは、アンモニア合成という花道を得て、カイザー・ウィルヘルム研究所の所長というポストに登り、ますます多忙な毎日を送りますが、妻クララは失意に沈み、家庭は崩壊の危機に至ります。何よりも、第一次世界大戦に際し、「早く戦争を終わらせるため」として夫が毒ガス戦の研究にのめり込んだことが、妻にはおそらく理解できなかったのでしょう。1915年5月、妻クララは抗議自殺します。

しかし、ベルリンの社交クラブの若い秘書で、同じくユダヤ系のシャルロッテを妻に迎え、ハーバーの毒ガス研究はやみません。塩素ガスやジホスゲンなどは防毒マスクで防御できますが、さらにイペリットの開発となると、皮膚に触れただけでびらん状態になるという凶悪さで、防毒マスクさえ無効になってしまいます。チューリヒ工科大学のシュタウジンガー教授等からハーバーの毒ガス研究が痛烈に批判される中でドイツは敗戦を迎え、ハーバーはスイスに逃亡しますが、1918年、アンモニア合成法の開発研究の業績で、ハーバーはノーベル化学賞を受賞、ドイツに復帰します。

両大戦の間の時期に、ハーバーはドイツ科学の再生に力を尽くしますが、ここでもシャルロッテとの間に不和を生じて離婚、反ユダヤ主義を掲げるナチス党の台頭によりユダヤ人の全追放が行われます。ドイツ化学工業界のトップであったボッシュはこれに反対し、「ユダヤ系の科学者を追放することは、ドイツから物理や化学を追放することである」と警告しますが、ヒトラーは「それならこれから百年、ドイツは物理も化学もなしにやっていこうではないか」と答えたそうな(p.218)。ハーバーは辞職し、国外追放となります。この後のドイツの歩む道は歴史が示すとおりですし、ハーバーもまた失意の道を歩みます。



いやはや、これまでよく知らなかったハーバーの生涯が、具体的にわかりました。と同時に、合成の技術的な困難さの反面の、風向きにより「敵を倒すだけでなく味方にも犠牲を出してしまう」毒ガスという兵器の本質的愚かしさを感じます。二人の妻に去られる人間性は、仕事中毒により地位と権力を手にした一匹狼が、持ち前の組織力を活かし「傑出した科学的才能を大量殺戮のために使っている」(*2)ようなものだと思います。

『愛国心を裏切られた天才』という表題について、国を愛するという言葉もいささか漠然としているように思います。「国民」を愛することや「国土」を愛するということはすんなりと理解できますが、「国家機構」は無条件に愛するとは限らない。国民を迫害収奪し、国土を破壊するようなら、その国家機構は果たして愛するに値するのかどうか。同様に、ハーバーの愛国心は歪んでいなかったのかどうか。

(*1):ハーバーの業績など何も知らなかった若い頃、某高校でニトロベンゼンを入れたビーカー中で水の電気分解を行い、発生する水素でニトロベンゼンが還元されてアニリンができるかどうかを調べ、さらし粉が赤紫色に変化するのを確かめて喜んだ記憶があります。
(*2):アインシュタインがハーバーを批判した言葉だそうです。(p.159)

コメント

清野豁『地球温暖化と農業』を読む

2020年02月26日 06時02分42秒 | -ノンフィクション
成山堂書店のシリーズ「気象ブックス」中の一冊で、2008年に刊行された清野豁(ひろし)著『地球温暖化と農業』を読みました。近年の温暖化に伴う豪雨災害の激化を見て、農業はどうなっていくのかと疑問を持ったのがきっかけです。著者は九大農学部出身で農林省に入り、一貫して技術畑を歩いてきた専門家らしく、警世的な表現はごく控えめに、地味な内容ながらデータをもとに問題の所在をまとめているようです。本書の構成は次のとおりです。

第1章 温暖化とは何、そしてその影響は
第2章 温暖化すると作物はどうなる
第3章 食料生産への影響はどのように調べるのか
第4章 温暖化で世界の食料生産はどう変わるのか
第5章 温暖化で日本の食料生産はどう変わるのか
第6章 温暖化の影響は回避できるのか

内容は、とても一口でまとめることはできないものですが、IPCCの気候変化の予測によれば、2030年代で影響が出始めるのが水不足だそうで、大気中の水蒸気量が増える反面、雨が降る地域が変化し、ヨーロッパやオーストラリアでは干ばつが広がり、世界的には数億人が新たに水不足になり、暴風雨の被害は世界中で広がるとのこと。2008年における予測は、なんだかもう実際に起こってきているようです。

ところで、植物は光合成によって二酸化炭素を吸収し炭水化物を作りますので、二酸化炭素濃度の上昇は農業にとってプラスに働くのではないかと考える向きもあるかもしれませんが、残念ながら高温障害というのがあり、ある特定の時期に過度の高温にさらされると不稔になりやすい。単純に言えば、熱帯地域は収穫量が減少し、温帯北部は増加する。砂漠化の進行や暴風雨の巨大化などはそれに拍車をかけるでしょうとのこと。

日本国内では、南西日本から南関東までは減収傾向、北日本は増収傾向となるようですが、これも実際は単純ではなく、むしろ高温によって土壌微生物の種類が減少するなど、従来の常識では予測しがたい変化があらわれてくるようです。

果樹王国山形の観点から興味深いのは、休眠打破のために冬期に一定の低温期間が必要ですが、特に7℃以下の低温を要求するのが

ブドウ(巨峰)     500時間以上
和梨(幸水)、柿    800時間以上
桃、スモモ     1,000時間以上
サクランボ、リンゴ 1,400時間以上
西洋梨       1,600時間以上

となっています。そうすると、温暖化の進行で南国・暖地の作物が北上するという傾向から言えば、サクランボの主力産地が山形から北海道に移行するとか、内陸部の寒地系リンゴが着色不良で商品価値を失うとかいう事態が起こりかねません。現に、我が家でも毎年ゴーヤを栽培するようになっていますし、植えて三年で実がなる桃の北限は、以前は福島県あたりでしたが、現在は山形県から秋田県北部にまで移行しつつあります。ありうる事態だと考えるべきでしょう。

ただし、農業技術面からの議論以前に、豪雨災害で農地のインフラが広く破壊されてしまうなど、高齢農家が営農を諦め耕作放棄せざるをえない状況が起こったら、ノンビリした議論はしていられないのではなかろうか。ましてや、南北の経済格差で食料を奪い合う事態が起こったり、熱帯地域から亜熱帯〜温帯地域へ世界規模で難民が発生したりしたらどうなるのだろう。残念ながら、データに基づいて議論することは難しいようで、そうした視点は本書には見当たりませんでした。

コメント

益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』を読む

2020年02月09日 06時02分26秒 | -ノンフィクション
2015年8月刊の集英社新書で、益川敏英著『科学者は戦争で何をしたか』を読みました。2008年のノーベル物理学賞を受賞した1940年生まれの物理学者が受賞記念講演で「戦争」を語った意味を出発点に、戦争と科学者の関係について語ったものです。本書の構成は次のとおり。

はじめに
第1章 諸刃の科学―「ノーベル賞技術」は世界を破滅させるか?
第2章 戦時中、科学者は何をしたか?
第3章 「選択と集中」に翻弄される現代の科学
第4章 軍事研究の現在―日本でも進む軍学協同
第5章 暴走する政治と「歯止め」の消滅
第6章 「原子力」はあらゆる問題の縮図
第7章 地球上から戦争をなくすには

全体に、年配の老科学者が、半生にわたる反戦活動や労働運動を振り返りながら、昨今の社会や政治の情勢にも触れたもので、ノーベル賞科学者がこんなに象牙の塔の住人ではない、型破りな人だとはまるで思いませんでした(^o^)/

しかしながら、時折はさまれる視点にはさすがに興味深いものがあります。例えば、

  • 巨大化した科学は人々の生活からどんどん遠のいていってしまうのです。(中略)一般市民は科学にどんどん置いていかれるばかりです。(p.76)
  • STAP細胞問題や論文不正問題、あるいは発明技術を巡る特許訴訟など(中略)、こうした事件や訴訟問題も科学政策の「選択と集中」がもたらした政治とカネの問題だと私は見ています。(p.82)
  • むしろ潤沢な資金を調達できている研究機関ほど腐敗や不正を生む。STAP細胞問題も、そうした流れで起きた事件です。(p.93)
  • 民生にも軍事にも使える「デュアルユース」問題(p.98)。例:テレビの電波がビルに反射し、画像がブレるゴースト現象が発生、ある塗装会社に勤める科学者がフェライトを主成分とするセラミック入り塗料を開発し、ゴースト現象を起きにくくしたが、十年後、その塗料は米軍のステルス戦闘機に使われた。(要旨、p.99〜100)
  • 専門的技術や知識を政治家や軍人に渡してしまうと、科学者は用がなくなり、ポイ捨てされる。アメリカで原爆開発の中心となった人は、スパイの疑いを受けて拘束された。朝永振一郎さんが軍に提出した論文は肝心のところがぼかしてあった。(要旨)

などなど。

ただし、益川先生はやはり物理学者です。例えば、原子炉を廃炉にするにしても大きな課題であり、放射性廃棄物をどうするかという問題をクリアするためにも「研究が必要」としています。たしかに、現実的に様々な研究が必要なのは確かでしょうが、「えっ、それだけ?」と、ちょいと不満もあります。

昭和20年代の終わり頃に第五福竜丸事件が起こったとき、原子力政策の方向性が論議されましたが、物理の人は利用できるエネルギーの巨大さに惹かれて「原子力の平和利用ならいい」と了解した人が多かったけれど、化学の人は「放射性廃棄物はどうするんだ」と慎重だったはず。それに対する当時の説明が「これから研究していけばいい」だったと理解しています。政治が学者を札束でひっぱたいて「原子力の平和利用」に見切り発車のゴーサインを出させた時代の説明から、一歩も進んでいないように見えてしまいます。

うーむ。難しい問題です。読後感も、なかなかスッキリとはいきませんでした。

コメント

廣野卓『卑弥呼は何を食べていたか』を読む

2020年02月07日 06時01分00秒 | -ノンフィクション
2012年12月に刊行された新潮新書で、廣野卓(ひろの・たかし)著『卑弥呼は何を食べていたか』を読みました。表題のほか、大和王朝の宮廷料理、遣魏使の弁当など、古代の食卓について考察した本です。権力をめぐる騙し合いや殺し合いなどではなく、人々が何を食べていたかに関する内容は、非常に興味深いものがあります。

本書の内容は次のとおりです。

第1章 『魏志倭人伝』に卑弥呼の食を探る
第2章 オンザロックを味わった仁徳大王
第3章 チーズづくりを命じた文武天皇
第4章 グルメな長屋王
第5章 古代食と現代食

タイトルの「卑弥呼は何を食べていたか」については、『魏志倭人伝』の記述から、米とアワなど雑穀類、クリ、シイ、トチなど堅果類、サトイモ、蔬菜、魚貝類などを挙げています。むしろ、遣魏使の使節が食べた魏の宮廷料理のほうがずっと詳しいです。このあたり、タイトルが内容にそぐわない面があり、「古代の食生活を探る」みたいな題のほうが当たっているようです。

とはいいながら、調理技術的に、先土器時代の「焼く・炙る」から、土器の発明により「煮る・煮詰める・蒸す」ことが可能になり、さらに金属器が使われるようになって、「油で揚げる、炒める」ことが普及していくというあたりは、世界史的な視点が面白いです。

また、古代から現代まで、食生活は少しずつ変わってきていますが、共通点も多くあります。食べている魚種はタイを好むなど現代とほぼ同じようなものですし、鎌倉時代の説話集『古事談』に

イワシは体に良いけれど、宮家や貴族の食には供しない。サバは卑しい食べ物だけれど天皇にお出しする。後三条天皇(第71代・平安時代末期)は、サバの頭にコショウを塗り、炙って常に口にされていた(p.146)

との記述が残るのだそうで、なんだか共感していまいます(^o^)/

また、時代によって米に依存する度合いがかなり違ってきており、昔のほうがアワ、ヒエ、クルミ、トチなどの雑穀類・堅果類が幅広く食べられており、脚気予防などの観点からは栄養的に偏らずむしろ好ましいようです。しかし、食料の安定的な供給確保の面では現代のほうがだいぶ安心感があるみたい。

コメント

山本一力『旅の作法、人生の極意』を読む

2019年12月24日 06時03分13秒 | -ノンフィクション
2019年10月にPHP研究所から刊行された単行本で、山本一力著『旅の作法、人生の極意』を読みました。題名のように、若い頃に従事した旅行代理店の添乗員の仕事や取材旅行を中心とした旅と、パソコンを見続けて視力に衰えを感じたために運転免許を返上し、それまでペーパードライバーだった奥さんがハンドルを握ってあちこちをドライブする話など、様々な人や店などとの出会いを描くエッセイ集です。

大きな構成は、

第1部 もの想ふ旅人
 日本にて
 日本とアメリカー比べてみれば
 アメリカにて
 台湾・中国・香港にて
第2部 ドライブ道すがら

となっていますが、初出は第1部が日本ホテル協会の「Hotel Review」に、第2部がトヨタ・ファイナンス協会の「Harmony」に連載されたもののようです。なるほど、それで第2部には「ヤリス」などというトヨタ車の名前が出てきて褒めているのだなと納得しました(^o^)/

読了して印象深かったことが2点。

  • 『ジョン・マン』の取材は2009年から始まっていること。現在(2019年)の段階で十年の時間をかけて、ようやくゴールドラッシュまで来たところで、どうやら著者は本作をライフワークにする心づもりのようです。なんとか完結してもらいたい。
  • 若い頃に国際文通していた米国のペンフレンドの女性と再会するくだりは、ちょいといい話です。相手の女性が精神科医になっていて、手紙をみな保存していることに驚き恐縮するところなんぞ、作家の冷や汗が伝わるようです(^o^)/

ところで、旅に出れば食事は自前というわけにはいきません。自然に、それぞれの土地の飲食店に入ることになります。ガイドブックの星の数を誇るような有名レストランなどではなく、頑固親父が厨房に立ち続け、いい仕事をしているような、下町の風情を残す店が印象深い。これは共感するところ大です。

特別なもの、珍しいものだけを求めて歩くのは、特別天然記念物だけを珍重し、今そこにある生態系の価値を見ないことに似ています(*1)。ガイドブックの星の数などとは無縁な、下町の飲食店で地元の人たちが注文して食べる料理は、やっぱり美味しいだろうと思いますね〜(^o^)/

(*1):疾風と勁草と松林〜「電網郊外散歩道」2015年3月
コメント

坪倉優介『ぼくらはみんな生きている』を読む

2019年12月09日 06時04分52秒 | -ノンフィクション
2001年に幻冬舎から刊行された単行本で、坪倉優介著『ぼくらはみんな生きている』を読みました。「18歳ですべての記憶を失くした青年の手記」と副題にあるように、高校を卒業し大学に入学したばかりの一年生のとき、乗っていたスクーターが停車中のトラックに激突して救急病院で一命を取り留めたものの、すべての記憶を失ってしまいます。おそらくは、記憶を保存する脳機能の一部に障碍が発生し、家も家族も自分の名前も、いや、寝ること、食べることなど身の回りのことも、すべて忘れて覚えていないという状態で、これは大変な事態です。水は冷たくお湯は温かいということもわかりませんので、冷たい水風呂に入り、お金の使い方もわからないため買物もできません。

それでも、家族の協力で一つ一つ覚えなおしていきますが、これは大変なストレスでしょう。夜、家を抜けだしたはいいものの、帰れなくなったりすることは何度もあったようで、同世代の仲間たちも、助けてくれる者もあれば、遠ざかるもの、邪魔にするものもあり。お母さんの無謀なほどの強い意思で大学に行き、一年留年はしましたが、染色の道を選び、職人としての修行が始まるあたりは、むしろ新鮮な、無垢な感覚がプラスしたのかもしれないとも思えます。

家庭が経済的にしっかりしていたことと、はじめは自宅から通える距離の大学だったことが、復学当初にはプラスにはたらいたようで、条件に恵まれていた面もあったろうと感じます。視力を失うこともたいへんなことですが、記憶を失うということも、大変な事態だということがよくわかりました。ただただ運が良かったねと言うしかありません。



我が家では、私自身が高校生の時に交通事故(ぶつけられる方)に遭い、また親戚にやはりスクーターでダンプに追突して全身麻痺となり、新婚の奥さんも去り、その後、長く療養生活をおくった人がいましたので、結局オートバイには見向きもせずに今に至りました。モトクロスやモータースポーツの楽しさも理解はできますが、長く続いた家庭の不幸を思うと、「起こる可能性のあることは起こる」、「起こってほしくない事態は、最悪のタイミングで起こる」というマーフィーの法則のほうを信じたくなります。もっとも、剣岳で岩登りの訓練中に宙吊りになった経験もあり、人畜無害、危険回避の姿勢で一貫していたわけではないのですが(^o^;)>poripori

コメント

多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む

2019年11月09日 06時03分40秒 | -ノンフィクション
2013年刊の岩波新書で、多和田葉子著『言葉と歩く日記』を読みました。著者は1960年生まれで、大学卒業後に渡欧し、現在ドイツ在住、日本語とドイツ語で作品を発表するかたわら、依頼を受けて作品を朗読するなど、各地を旅する機会が多いようです。移動の徒然に日英独の言葉について考えたことが、日記のような形式で綴られています。日付によって話題はポンポンと飛び、論旨一貫した主張とはかけ離れたスタイルで、ついていくのに少々骨が折れました。そんなわけで、感想というよりは触発されての雑感、雑記というものになりますが、いくつかをメモ。

  • 「因幡の白ウサギ」について、私もなぜワニが登場するのか不思議でした。可能性としては、(1)当時は温暖でワニがいた、(2)古代の人々のルーツはワニが生息する南方から来た、(3)ワニという言葉が指し示す動物が今とは違う、などが考えられますが、彼女は晩年のレヴィ・ストロースの環太平洋文化圏説を紹介しています。(p.40〜41)
  • 「言い切る」ことへのためらいについて、「決めつける」ことで相手に不快感を与えないように予防線を張る心理、と分析しているようです。べつに「春はあけぼの」と言い切ったっていいじゃないか。これは同じように感じます。(p.102)
  • ハンナ・アーレントの映画の中で、かつて彼女の恋人だったことのあるハイデッガーが「母語であるドイツ語をいじりまわして」「意味ありげに語る滑稽でケチな野郎として描かれていた」とのこと。一般に偉いと言われている哲学者の評価が、ちょっと意外でおもしろかったです。(p.118)
  • 「物心ついてからこのかた」を英(独)語でどう言うのか。片岡義男の言葉「日本語の言い方を細かく砕き、日本語的な言い回しをすべてふるい落として純粋に意味だけを残し、それを正しい語順の英語に託して相手へと届け」る、そういう努力を毎日続けることを重要と考えているとのこと。ちなみに片岡訳は remembering as far back as I can とのこと。なるほど。(p.121)
  • クリエイティヴな仕事をしている人というのは、「売れる商品をつくっている会社の内部で、視覚的に買い手を魅惑する係の人」であって、真剣に芸術に取り組んでいる人ならそうは言わないだとう、というのも同感。(p.208)

など、なかなか興味深いものがありました。



温又柔『台湾生まれ日本語育ち』(*1)に描かれる、家族が世代によって日本語や中国語がごちゃまぜの言語でやり取りせざるを得ない話は、統治者の交代という否応ない歴史の産物でしたが、多和田さんの場合は自ら選択した結果としての多言語生活です。その点で、歴史の悲劇の影響はうすく、本人の知的な強靭さを感じさせる本と言えそうです。

(*1):温又柔『台湾生まれ日本語育ち』を読む〜「電網郊外散歩道」2016年4月
コメント

山崎光夫『北里柴三郎(下)』を読む

2019年09月27日 06時05分17秒 | -ノンフィクション
中公文庫の新装版で、山崎光夫著『北里柴三郎』の下巻を読みました。上巻に続き、第三章「疾風の機」、第四章「怒涛の秋」からなります。

ドイツ留学から帰った北里柴三郎でしたが、日本では活躍の場がありませんでした。脚気病菌の一件で東京医科大学からは冷遇されており、米国から研究所の所長にと破格の待遇を示され、迷います。転機をもたらしたのは、福沢諭吉でした。福沢は自分の土地を提供し、実業家の森村市左衛門が資金を出し、大日本私立衛生会が中心となって、芝公園に「伝染病研究所」を開くことになります。

これは、文部省が計画していた東京医科大学内に官立の伝染病研究所を作るという計画に先んじるもので、ここでも文部省・東大と対立する結果になります。そこで起こるのが、伝染病研究所設置反対運動。柴三郎は所長を辞任すると発表、経緯が新聞で報道されて逆に同情論が強まり、広尾に移転して病院も併設することになります。

そんな折、明治27年に、香港にペスト発生の一報が入り、政府は医科大学教授・青山胤通に病理解剖と臨床を、北里柴三郎に細菌学の調査研究を命じます。青山はペスト患者の遺体を解剖し、柴三郎は顕微鏡下にペスト菌を確認しますが、青山は自分がペストに感染してしまいます。幸いに、徐々に快方に向かいますが、柴三郎は病原を確定するため実験を進めます。この報告を論文にまとめ、『ランセット』誌に寄稿、掲載されます。ペスト菌がグラム陰性なのか陽性なのか、一部に曖昧な点は残ったものの、たしかにペスト菌発見の第一報でした。

伝染病研究所の運営は、ジフテリア血清など血清療法のベースとなる血清製造をすすめるなど、順調に運びますが、愛妾のすっぱぬき事件やら何やら、脱線も発生(^o^)/
また、経費面で窮屈な私立の伝染病研究所を国立に移管することになり、福沢は危惧しますが、後年、その懸念は現実のものとなります。このあたりの政治的かけひきは物語としては面白いけれど、研究のスムーズな進行を阻害するブレーキでしかないでしょう。背後には文部省・東大との確執があり、脚気病論争の影響があったようです。



物語の読者としては、伝染病研究所の所管をめぐる政治的な動きや、所長が辞めるならオレも私も、と続く所員の動きなど人情噺のようなドラマも面白いところでしょうが、当方はむしろ研究の経緯のあたりに興味関心が向かいがちです。志賀潔の赤痢菌の発見や野口英世の若かりし時代など、そうそうたる顔ぶれが登場するドラマは、やっぱり面白いです!

コメント

山崎光夫『北里柴三郎(上)』を読む

2019年09月24日 06時01分43秒 | -ノンフィクション
千円札の顔が2024年から変わるそうで、私の記憶では伊藤博文から夏目漱石、野口英世に続き、北里柴三郎になる予定らしい。それはめでたいことですが、はて、北里柴三郎の業績はと訊かれると、破傷風だったかペストだったか、とにかく伝染病の研究をしたエライ人、くらいの認識です。

そのような世間一般の認識を商機と見たであろう出版社が、文化的意義を認識して新装版として改版刊行された文庫本、山崎光夫著『北里柴三郎〜雷と呼ばれた男』(中公文庫)の上下巻が、行きつけの書店の新刊コーナーにありましたので、いそいで手に取り購入して来ました。

上巻は、第1章「立志への道」と第2章「ベルリンの光」からなります。冒頭で、北里柴三郎は東京大学医学部長から呼びだされます。卒業を前にして少々暴れすぎたために落第を言い渡されるのか、それとも入学時の年齢詐称がバレたのかと不安になりますが、実は卒業の進路の意思確認でした。このあたり、柴三郎の経歴と当時の学生の気風が感じられるところです。

卒業後、病院勤務の道を選ばず内務省衛生局に奉職し、予防衛生の業務に携わります。エリート風を吹かす上役にペコペコせず、硬骨を貫きますが、案外こういう性格は真実を究明しようとする学者として大成する上で大事な資質なのかもしれないと感じます。衛生研究所に移った柴三郎は、顕微鏡に夢中になります。東京府下に発生した鶏コレラに対し、原因となる鶏コレラ菌を同定しますが、柴三郎の優れた手技のあらわれであり、明治18年の日本では初の業績でした。また、長崎に発生したコレラについても調査し、患者の排泄物からコッホが発見していたコレラ菌を検出して論文を発表し注目されます。

やがて、内務省からドイツ留学の命が下り、ベルリン大学でローベルト・コッホの下で研究生活に入ります。チフス菌及びコレラ菌の培養に関する基礎的研究のテーマを与えられた柴三郎の手腕と研究心を評価し、新しいテーマも与えられ、実験に次ぐ実験の生活を送ります。そんな中にやってきたのが、 森鷗外こと森林太郎。スマートですが実験室生活にはあまり熱心ではありません。それなのに、来独した陸軍省軍医監の石黒忠悳は、柴三郎に対し、コッホの下からミュンヘンへ移れと命じます。上官に従順な森と、衛生局を辞職してでも研究を続けたい柴三郎。実はコッホ本人から柴三郎への高い評価を聞いた石黒は、人事特命を撤回します。

このあたり、後に脚気病の米食原因説を唱える海軍の高木兼寛に対し、ワンマン石黒が脚気病細菌説に固執し、森林太郎は高木説を攻撃する論陣を張ります(*1)が、上司の意を受けすぎるというのか、忖度しすぎかも(^o^)/
実際には、オランダのペーケルハーリングという病理学者がバタビア(ジャカルタ)で脚気病菌を発見したという報告に対し、実験過程に疑義を呈しますが、同時にそれは同窓で同門の緒方正規に反ぱくすることとなります。

さらに柴三郎は、留学年限の三年からさらに二年の延長を認められ、破傷風菌の純培養の方法を確立しますが、同時にそれは嫌気性菌というグループの存在を明らかにするとともに、抗毒素の発見と免疫血清療法の基礎を提示する業績でもありました。



いやはや、すごいものです。伝染病研究のエポックメイキングな出来事が次々に登場します。柴三郎の頑固さが学問研究の上ではプラスに働いていることを感じます。

(*1):吉村昭『白い航跡』(下巻)を読む〜「電網郊外散歩道」2009年8月
コメント

半藤一利『アメリカはいかにして日本を占領したか』を読む

2019年09月19日 06時03分38秒 | -ノンフィクション
2019年6月刊のPHP文庫で、半藤一利著『アメリカはいかにして日本を占領したか』を読みました。著者の本は、『幕末史』(*1)や『昭和史 1926-1945』(*2)以来しばらくぶりです。『マッカーサーと日本人』の副題のとおり、アメリカの占領政策におけるマッカーサーの個性と影響力、戦後の日本がどのように形作られたかを描くものです。朝鮮戦争終結後にもかかわらず、なぜか進駐軍の将校の子供と遊んだ記憶がある当方の、戦後史の真相に対する興味から手にした一冊です。
本書の構成は次のとおり。

前口上 神社と銅像
第一話 「青い眼の大君」の日々
 1.神に導かれて
 2.太平洋の「スイス」に
 3.神様は姿を示さない
 4.解任は二年遅かった
第二話 昭和天皇の“戦い”
 1.天皇制存続の是非
 2.国民を助けてほしい
 3.計十一回の会談
第三話 十一回の会談・秘話
第四話 「ヒロヒトを吊るせ」
 1.裁判にかけろ
 2.天皇を救え
 3.奇跡の存続
第五話 本間は断罪されねばならぬ
 1.勝者は敗者を裁く
 2.死の行進の真相
 3.勝者の復讐

内容的には、はじめて知るところもあれば既知のものもあり、様々な媒体に発表したものや講演などを編集して成立した一冊で、著者が明確な意図をもって書き下ろしたものではないようです。その意味では、著者の本ではあるけれど、同時に編集者の作品でもあるのでしょう。

ただし、占領政策の中で、とくに戦後を形作る基本的な方向性に関しては、むしろマッカーサーが昭和天皇との会談を通じて、その意向をかなり取り入れていたようだ、という見解は新鮮。昭和天皇が沖縄に対して格別の思いを示していたのは、先の大戦の犠牲とともに、米軍基地の配置に関する判断にずっと責任を感じていたからではないか、と示唆しています。

(*1):半藤一利『幕末史』を読む〜「電網郊外散歩道」2009年9月
(*2):半藤一利『昭和史 1926-1945』を読む〜「電網郊外散歩道」2011年5月

コメント

伊東道風『万年筆バイブル』を読む

2019年09月05日 06時01分33秒 | -ノンフィクション
講談社選書メチエ中の1冊として2019年の4月に刊行された単行本で、伊東道風著『万年筆バイブル』を読みました。本書の構成は、次のとおりです。

第一章 「自分だけの1本」の選び方
 1.万年筆売り場へようこそ
 2.試し書きをしてみよう
 3.インクの吸入方式について
第二章 インクと万年筆の正しい関係
 1.インク選びのコツ
 2.インク粘度と表面張力の話
 3.色材について
 4.インクのトラブルとメインテナンス
第三章 万年筆の仕組みと科学
 1.万年筆の構成
 2.万年筆の頭脳「ペン先」
 3.万年筆の心臓「ペン芯」
 4.キャップの役割
 5.万年筆のボディ〜首軸・胴軸を中心に
 6.万年筆の個性
第四章 より広く、深く知るための万年筆「世界地図」
 1.国・地域別に見る万年筆の特徴
 2.各国万年筆メーカーの特徴を知る
ドキュメント パイロット工場見学ツアー 万年筆ができるまで
年譜 万年筆の200年史


著者は個人ではなく、専門店「伊東屋」で万年筆やインクのデザイン、販売、修理、仕入れに関わるメンバーを一人の人物に見立てた架空の人物のようです。万年筆に関わる基礎的な知識を知るには、良い内容だと感じました。高校入学以来50年、ずっと万年筆を愛用してきた私にとっても、初めて知る知識がありました。例えば;

  • ペン先の切り割りは同じ幅なのではなく、ハの形をしている
  • 櫛溝の幅はペン先側に行くほど広くなり、圧力差を調節するダムの役割を果たしている
  • 国産メーカー三社の特徴は、(1)パイロット:ストレスなくインクが潤沢に出てくる、(2)プラチナ:インク量を抑えめにして速書きにも適応、(3)手に荷重のかかりにくい、重心を前に寄せた設計

などは、インクの流れる原理や仕組みを理解するうえで参考になるものですし、なんとなく感じていたメーカーの特徴を的確に言い表したものと思います。

ただし、はてな?と首をかしげるところもチラホラ。例えばインクの補充方式についてカートリッジ式と吸入式を比較し、インクの費用対効果なんぞをセールストークにしているようですが(p.40〜41)、銀行やコンビニのATMで手数料を払うご時世、「なんとも昭和な」違和感を感じてしまいます。そこじゃないだろ〜みたいな(^o^)/

また、インク色素の退色の原因を、「紙に染みこんだ染料が乾燥して、粉となって空気中に消えていくから」と説明しています(p.61)が、これはマチガイ。例えば色素によっては酸化型と還元型では色が違い、光や空気で酸化されることによって色が薄くなり、あたかも消えたように見える(*1)だけなのではないかと思います。

さらに、古典インクの説明の中に、唐突に「酸化第二鉄というのは、簡単にいえば錆のことで、つまりは錆びることで黒へと変色し、水に溶けにくくなるのです」という説明をしています(p.64)が、これはおかしい。要するにFe2+がFe3+に酸化されることでタンニン酸第一鉄がタンニン酸第二鉄に変わり、不溶になることを言いたいのでしょうが、酸化第二鉄は古典インクとは無関係で、これを持ち出すのは適切ではないと思います。Fe3+からなる酸化第二鉄は赤錆で、むしろFe2+からなる酸化第一鉄のほうが黒錆でしょうから、色さえも逆です。

いずれにしろ、専門店のプロたちが、様々なお客さんたちに対応してきた経験をもとにまとめあげた内容で、『万年筆バイブル』という書名は伊達ではないようです。

(*1):紅茶に薄切りレモンを入れると色が薄くなるのは、レモン中に含まれるクエン酸等の影響でpHが小さく(酸性に)なり、紅茶中のポリフェノールの1種が無色になるためだそうです。色素が消えてなくなっているわけではない。





【蛇足】
備忘録ノートに書いたこのページ、途中で色の濃さが変わっていますが、実はどちらも同じプラチナ古典ブルーブラック・インクです。ただし、最初の方はプレッピー(M)で、色が薄い真ん中あたりはプロシオン(M)で、後半の濃い方はパイロットの白軸カクノ(M)です。インクフローの差とキャップの性能の違いによるもので、乾燥しやすいカクノのほうが濃縮&空気酸化されてしまい、色が濃くなってしまうのが原因のようです。

コメント

スコット・ローゼンバーグ『ブログ誕生』を読む

2019年08月16日 06時04分19秒 | -ノンフィクション
2010年の冬にNTT出版から刊行された単行本で、スコット・ローゼンバーグ著、井口耕二訳『ブログ誕生』を読みました。「総表現社会を切り拓いてきた人々とメディア」という副題を持つ本書は、現題を『say everything』といい、「HOW BLOGING BEGAN, WHAT IT'S BECOMING, AND WHY IT MATTERS」という副題を持っていたようですが、邦訳の副題の方が本書の意図するところをよく表しているのかもしれません。
第1部「パイオニア」で、1990年代のWEBにおけるジャスティン・ホールやデイブ・ワーナー、ジョーン・バーガーらの先駆者が描かれます。第2部「拡大」では、しだいに拡大していくブログの熱狂とでも言えばいいのか、2000年代の前半のブログ拡大の様子が、どちらかと言えばジャーナリスト的視点で描かれます。
第3部「ブログのもたらしたもの」。ここは、「ジャーナリスト対ブロガー」、「誰もがブログを持つ世界」、「未来につながるかけら」の三つの章からなります。

うーむ、アメリカと日本の違いなのか、ジャーナリスト的視点とアマチュア愛好家の違いなのか、「へぇ~、そうだったのか~」と思うところと、「そんなことは考えたこともないなぁ」と呆れるところと、様々な感想が去来します。

例えば、世の中にはふだん全く筆記具を持たない人がおおぜいいることを実感として知っていれば、「誰もがブログを持つ世界」だの「総表現社会」なんて発想はそもそも出てこないでしょう(^o^)/
ヘザー・アームストロングの言葉(p298)を待つまでもなく、インターネットに仕事について書くのはやめたほうが良い。同僚や上司にはばれるものですし、職業上知り得た秘密に触れてしまう危険性は常にあるものですから、最悪の場合、職を失う覚悟が必要です。

また、「べき乗則、ウェブログ、そして不公平さ」(p275)という言葉について、ごく少数の人がアルファブロガーとして多数の読者を集めるけれど、その他の大多数の人々はロングテールとなってごく内輪の読者しか得られない、ということを「不公平」だと感じたことは一度もありません。むしろ、あまりに多くのレスポンスがあると私生活を破壊しかねないため、コメントやトラックバックについても、ほどよい適量というものがあるのではないか、とさえ書きました(*1)。要するに、積極的に目立とうと思う人と、あまり目立ちたくないと考える人とでは、ブログに対する考え方が違うのではないか。ジャーナリストは目立ってなんぼ、自分の主張を積極的に展開するための手段としてブログ等を考えていたのでしょう。だから、思うほど社会的効果が大きくないとか、アマチュアの域にとどまってしまう限界性とか、感じてしまうのでしょう。

当ブログ「電網郊外散歩道」は、天下国家を論じたりすることはせず人畜無害に、ぎらぎらした「主流」の道を離れ、電網世界の「郊外」をのんびりと散歩するというイメージで始めたものです。郊外にも魅力的な風景があるように、15年目を迎えた今、自分自身の個人的記録、備忘録としてけっこう役立っており、他の人にも参考になればなお幸い、というスタンスを守っています。肩に力を入れて始めていたら、今までとても続かなかったことでしょう。これでよかったと思う今日この頃です。

(*1):コメントもTBも適量があるのかもしれない~「電網郊外散歩道」2005年10月
コメント

磯田道史『天災から日本史を読みなおす〜先人に学ぶ防災』を読む

2019年08月11日 06時05分43秒 | -ノンフィクション
2014年11月刊行の中公新書で、磯田道史著『天災から日本史を読みなおす』を読みました。「先人に学ぶ防災」と副題がついており、「まえがき」にはイスキア島の地震で救出され、後に世界的な歴史哲学者になったベネデット・クローチェのエピソードから、「現代に生きるために過去をみる」という立場を宣言します。うん、賛成。地震で生き埋めになったり津波で流されたりしているときに「我思う、故に我有り」などとノンビリしたことは言っていられません。生は理性に先行し、「我有る故に・我思う」(p.iii)のですから。

本書の構成は、次のとおりです。

まえがき〜イタリアの歴史哲学者を襲った大地震
第1章 秀吉と二つの地震
 1 天正地震と戦国武将
 2 伏見地震が終わらせた秀吉の天下
第2章 宝永地震が招いた津波と富士山噴火
 1 一七〇七年の富士山噴火に学ぶ
 2 「岡本元朝日記」が伝える実態
 3 高知種崎で被災した武士の証言
 4 全国を襲った宝永津波
 5 南海トラフはいつ動くのか
第3章 土砂崩れ・高潮と日本人
 1 土砂崩れから逃れるために
 2 高潮から逃れる江戸の知恵
第4章 災害が変えた幕末史
 1 「軍事大国」佐賀藩を生んだシーボルト台風
 2 文政京都地震の教訓
 3 忍者で防災
第5章 津波から生きのびる知恵
 1 母が生きのびた徳島の津波
 2 地震の前兆をとらえよ
第6章 東日本大震災の教訓
 1 南三陸町を歩いてわかったこと
 2 大船渡小に学ぶ
 3 村を救った、ある村長の記録
あとがき〜古人の経験・叡智を生かそう

この中で、天正地震で秀吉方の先陣をつとめるはずの武将たちが城と領地に大きな被害を受けたために、徳川家康との決戦を回避し、家康にとってはラッキー!な事態となったことなどは、お天気が味方したのと同じ、偶然性の要因でしょう。むしろ、歴史上の有名人が登場しない、津波や噴火などの記録のほうが、興味深いものがあります。例えば宝永四(1707)年の富士山の噴火の記録。秋田・佐竹藩江戸屋敷で、幼い藩主の守役が記した「岡本元朝日記」には、不気味な振動が四日間、昼も暗くなるほどの降灰が12日間続いたことが記されているとのことです。降灰がやんだ後でも灰に悩まされ、砂で目を痛めたとの記述がリアルです(p.57)。土砂崩れ、高潮、巨大台風、溜池の決壊など、いずれも現代に通じる災害の様子です。古文書に遺された記述は、いずれも貴重な情報です。

東日本大震災にともなう大津波で、福島第一原発はメルトダウンに至ったのに、宮城県の女川原発はかろうじて最悪の事態を免れることができた理由について、学生時代の記憶から、古文書に残された慶長津波の記録に基づき、海面からの高さを高めに設置した判断によるものと推理(*1)しましたが、私の推測が正しければ、まさに古文書の情報によって現代人が救われた好例と言ってよいでしょう。大事なことだと思います。

(*1):女川原発と福島第一との違いは古文書にある慶長津波の評価にある?〜「電網郊外散歩道」2011年4月



今日は、午後から天童市民文化会館でビゼーの歌劇「カルメン」を観る予定。楽しみです。


コメント