電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

X線撮影のこと

2006年05月16日 21時12分35秒 | 健康
ライラックの花盛りの今日このごろ、水田には田植えを終えたばかりの細い稲苗が風に揺れている。先日、健康診断でX線撮影を行った。バリウム世代という言葉のとおり、どろりとした白い硫酸バリウムを飲み、さまざまな角度からX線写真を撮る。どこかに異常ははないか、読影者の観察眼と経験によるところが大きいのだろう。最近は、集団検診の非効率性や弊害を指摘する声もあるようだが、第一次スクリーニングの意味は大きいのではないか。

以前、京都の島津製作所の歴史を展示した、島津創業記念資料館(*)を見学したことがある。興味深い展示が多数あり、見ごたえがあった。その中で、医療用レントゲン機器の展示コーナーが目に付いた。昔、近所の医院で見たのと同じレントゲン機器があった。

昭和38年頃の話だが、医療用レントゲンは、フィルムに焼き付ける方法と直接影像を見る方法と、二つの方法があった。フィルムに焼き付ける方は、保険以外に現像代などのお金が余分にかかった。だから、貧しい患者は注意深くフィルムを読影することができず、一瞬の判断で見落しも起こる。また、鉛のエプロンをするとはいえ、直接影像を見るわけだから、医師もかなりの放射線を浴びることになる。近所の医師は、患者にフィルムか直読かを尋ね、要望に応じてX線撮影を行っていたようだ。今考えると、自分の命を削りながらの仕事である。この医師はたしか60歳台の年齢で亡くなったのではなかったか。息子が医師となり医院の後を継ぎ、親子二代にわたって地域医療に貢献した。息子の方の先生も、寝たきりの祖父、全盲の祖母と、20年にわたりわが家に往診に来てくれた。先年亡くなったが、立派な医師の親子だったと思う。

島津製作所は、医療用レントゲン機器のパイオニア・メーカーの一つであり、研究の過程で放射線障害により犠牲となった人もいたという。医療用レントゲン機器の展示を見ているうちに、遠い記憶がよみがえり、ある医師の親子を思い出した。

(*): 島津創業記念資料館
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