電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

岩手で宮沢賢治のことを考える

2008年06月25日 06時49分57秒 | 読書
我が家では、子どもの頃から本を読むことがすすめられておりました。専業農家の収入では、子どもに豊富に本を買い与えることはできなかったと思いますが、祖父の縁で、鈴木弼美(すけよし)氏や前野正氏などが我が家を訪れ、前野正先生からは『西遊記』『勝海舟』などの子供向けの本をお土産にいただいたのが、本にまつわる最も古い記憶です。子どもながらに、面白い本をいただくのはたいへん嬉しく、後に、甥が本好きなのを知った母方の叔父が某出版社に勤めていた関係で、それこそ大量に送ってくれるようになった本を、むさぼるように読みました。

ところが、今思うと不思議ですが、宮沢賢治の童話は一冊も含まれていなかったのです。『銀河鉄道の夜』も『グスコーブドリの伝記』も『風の又三郎』も『セロ弾きのゴーシュ』も『オッペルと象』も、子どもの頃には読んだことがありません。母方の叔父の判断で、子どもにはまだ早いと考えられたのか。もしかして、我が家の環境では、宮沢賢治の作品は注意深く避けられていたのでしょうか?

宮沢賢治が世に出たのは、山形県最上郡鳥越村(現在の新庄市鳥越)の松田甚次郎が、山形市の医者の娘である吉田コトさんの協力を得て、羽田孜元首相のお父さんの経営する羽田書店から出版した、松田甚次郎(編)『宮沢賢治名作選』以後のことです。このあたりの事情は、「宮沢賢治 松田甚次郎」などで Google 検索していただければ(*)わかりますが、宮沢賢治はご存知のとおり早逝します。この松田甚次郎という人も、やはり早逝するのです。

我が家は、松田家と姻戚関係にありましたので、祖父もわが老父も、宮沢賢治を尊敬し私淑する松田甚次郎の日常や早逝、未亡人のその後の暮らしをよく知っておりました。老父が若かった頃、寒中に冷水をかぶる「みそぎ」や、夜を徹して山に登る行などをさせられるのがいやでしょうがなかったそうです。「あれは加藤完治の流儀」(*2)「あんなことをしていれば、いつか早死にするのは当たり前」だとのこと。

その、わが老父の宮沢賢治観は、「美しい花だが、その花には毒がある」というものです。その毒は麻痺性で、ひそかに死へ誘う性質があるようなのです。大人になって、免疫ができてからは、美しさを愛でることもできますが、子どもの頃にはその毒に麻痺してしまうこともあるのかも。

今なら、『グスコーブドリの伝記』は素晴らしい童話だと思いますが、『農民芸術概論』にあるという「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」という言葉を文字通り受け止めたテロリストは気の毒としか言いようがありません。病であれ老衰であれ、個人の死は不可避ですが、若者の死を美化するのは間違いなのではないかと、小学校高学年で「よだかの星」を習った中年は回顧するのです。

(*):たとえばこんな記事です~「宮沢賢治」と「松田甚次郎」

(*2):(追記)誤記がありましたので、訂正しました。松田甚次郎が昭和3年に茨城県で指導を受けた加藤完治の流儀「みそぎ・駆け足・やまとばたらき」を取り入れていたことを指していたのだろうと思います。

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