電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

藤沢周平没後二十年「小菅先生と教え子たち(上)」を読む

2017年12月08日 06時01分44秒 | -藤沢周平
藤沢周平が没して二十年になります。そういえば、没後十年のときも、様々なイベント等の様子を記事にしていましたので、あれからもう十年になるのかと感無量です。今年も、山形新聞でいろいろな企画をしていますが、最近「おや」と思ったのが「小菅先生と教え子たち」という記事でした。藤沢周平というペンネームで有名作家として知られる前に、東京在住の教え子たちを中心に交流を続けていたことは、作家本人も書いておりますので、ある程度は承知しておりました。でも、今回のように一回に一人ずつ、教え子の視点で、有名作家であるとともに敬愛する恩師でもある人のことを語ってもらうという企画は、たいへん興味深いものです。

11月27日付けの「工藤司朗」氏の回は、病癒えて結婚し娘一人を得たばかりなのにその妻を亡くすという苦難を経て、縁あって再婚するに至る時期の、まだ勤め人と作家という二足のわらじをはいていた頃の話が中心です。静岡在住の同期生の松田君からの電話で、小菅先生が「藤沢周平」というペンネームで「オール讀物」新人賞の候補になっているという話を聞き、早速買い求めてこれを読み、感激して先生の勤め先に電話をするところから交流が始まります。このあたりの経緯は、後に役員となった建築資材販売施工会社員という工藤氏の積極性を表すものでしょう。積極的に前に出ようとはしない恩師を引っ張り出した教え子たちの活力が、ともすれば後ろ向きになりがちな作家の暗い情念に、時折、陽光を照らすようなものであったのかもしれません。でなければ、その後の師弟の交流が長く続くものとはなりにくかったのではないかと思います。

直木賞の受賞の際に、先輩と二人で万年筆を贈ったとありますが、それがあのパーカーの万年筆だったのでしょう。二人が教え子たちを代表し、副担任だった大井晴先生とともに授賞式に招待されたのは、返礼の意味もあったのかもしれません。

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