江戸時代まで、天然痘は治療法のない恐ろしい感染症でした。何度も大流行があり、死亡率は高く、回復できた場合であっても顔などに痘痕が残り、とくに若い女性には悲嘆のもととなりました。そんな時代に、福井藩の町医者の子として生まれた笠原良策は熱心な漢方医として成長しますが、天然痘の流行にはやはりなすすべを知らず、無力を感じるばかりでした。ある日、疲れを取ろうと訪れた山中温泉で、加賀国(石川県)在住の同業の医師と同宿となり、蘭学、西洋医学の話を聞きます。蘭方医の新知識に興味を持った良策は、日野鼎哉のもとで学ぶことを決意し、京都に向かいます。そこで出会った書物『引痘略』により、牛痘を用いたジェンナーの種痘法の概要を知ります。
恐ろしい感染症を予防する方法がある。一度牛痘にかかった者は、二度と天然痘に感染することはない。種痘法による免疫の獲得です。問題は、牛痘の苗をいかにして入手するかでした。笠原良策は、名君の声が高い福井藩主・松平春嶽に願い出て許諾を得、外国から渡ってきた牛痘の苗を入手します。七人の子どもに接種しますがようやく一人だけ発痘し、この苗を7日間隔で新しい子どもに植え継ぐことで多くの人々を救う可能性を見出します。京都において一定の実績を積み重ねた後、大雪の中の山越えを敢行し、痘苗を植え継いだ子どもを福井に運ぶことに成功します。しかし、福井での種痘の実施は、身分制の壁と種痘法への偏見が立ちはだかり、困難な日々が続くのでした。
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京都ではある程度順調に進んだ種痘が、福井ではあれほど困難だったのはなぜか。一つには笠原良策を支援する背景というか、ネットワークが弱体だったからと言えそうです。京都では緒方洪庵が痘苗を請うて訪ねてくるほどでしたが、福井では藩医でもない単なる町医者にすぎない。そういう身分制の強さが障壁となったのではなかろうか。さらに、牛痘を接種したら牛になるとか、疱瘡の毒を体内に入れるのだから悪化するに決まっているとか、当時もまた偏見と猜疑心と臆病とが混じり合った悪評が絶えなかったことでしょう。しかし、繰り返される天然痘の流行に際し種痘を受けた者は助かり、受けなかった者からは多くの犠牲が出たことで、論より証拠、種痘法はやがて全国各地に広まっていきます。
ジェンナーの種痘法の発見が1796年、牛痘由来の痘苗が日本に到来したのが1848年ですから、52年後ということになります。鎖国の時代背景を考えれば、ずいぶん早かったと考えることもできるでしょう。著者・吉村昭氏は、ロシアで種痘法を習得し帰国後に蝦夷地で種痘を実施した経緯を別の物語として描いていjますが、これは後に続きませんでしたので、やはり日本では笠原良策の業績が重要でしょう。以後、世界と同様に日本中で種痘、天然痘ワクチンの接種が行われ、私を含む中高年世代は腕にしっかりと痘痕が残っていますが、1980(昭和55)年にはWHOが天然痘の撲滅を宣言し、大きなニュースとなりました。その後、種痘は行われなくなり、若い人たちの腕には痘痕はみられなくなりましたが、これが逆に他のワクチンも不要だとの誤解を招き、いくつかのワクチンの副反応に対する(おそらくは無自覚な善意と正義感からなる)報道キャンペーンも重なって、公衆衛生を担当する官公庁の及び腰とワクチン不信の流れとなっていったのだろうと思います。もしそうだとしたら、先人ははたして何と言うのだろうか?
恐ろしい感染症を予防する方法がある。一度牛痘にかかった者は、二度と天然痘に感染することはない。種痘法による免疫の獲得です。問題は、牛痘の苗をいかにして入手するかでした。笠原良策は、名君の声が高い福井藩主・松平春嶽に願い出て許諾を得、外国から渡ってきた牛痘の苗を入手します。七人の子どもに接種しますがようやく一人だけ発痘し、この苗を7日間隔で新しい子どもに植え継ぐことで多くの人々を救う可能性を見出します。京都において一定の実績を積み重ねた後、大雪の中の山越えを敢行し、痘苗を植え継いだ子どもを福井に運ぶことに成功します。しかし、福井での種痘の実施は、身分制の壁と種痘法への偏見が立ちはだかり、困難な日々が続くのでした。
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京都ではある程度順調に進んだ種痘が、福井ではあれほど困難だったのはなぜか。一つには笠原良策を支援する背景というか、ネットワークが弱体だったからと言えそうです。京都では緒方洪庵が痘苗を請うて訪ねてくるほどでしたが、福井では藩医でもない単なる町医者にすぎない。そういう身分制の強さが障壁となったのではなかろうか。さらに、牛痘を接種したら牛になるとか、疱瘡の毒を体内に入れるのだから悪化するに決まっているとか、当時もまた偏見と猜疑心と臆病とが混じり合った悪評が絶えなかったことでしょう。しかし、繰り返される天然痘の流行に際し種痘を受けた者は助かり、受けなかった者からは多くの犠牲が出たことで、論より証拠、種痘法はやがて全国各地に広まっていきます。
ジェンナーの種痘法の発見が1796年、牛痘由来の痘苗が日本に到来したのが1848年ですから、52年後ということになります。鎖国の時代背景を考えれば、ずいぶん早かったと考えることもできるでしょう。著者・吉村昭氏は、ロシアで種痘法を習得し帰国後に蝦夷地で種痘を実施した経緯を別の物語として描いていjますが、これは後に続きませんでしたので、やはり日本では笠原良策の業績が重要でしょう。以後、世界と同様に日本中で種痘、天然痘ワクチンの接種が行われ、私を含む中高年世代は腕にしっかりと痘痕が残っていますが、1980(昭和55)年にはWHOが天然痘の撲滅を宣言し、大きなニュースとなりました。その後、種痘は行われなくなり、若い人たちの腕には痘痕はみられなくなりましたが、これが逆に他のワクチンも不要だとの誤解を招き、いくつかのワクチンの副反応に対する(おそらくは無自覚な善意と正義感からなる)報道キャンペーンも重なって、公衆衛生を担当する官公庁の及び腰とワクチン不信の流れとなっていったのだろうと思います。もしそうだとしたら、先人ははたして何と言うのだろうか?
この時代は無理解や無学が種痘の広がりを妨げた要因のひとつでしたが、今は溢れんばかりの情報や基礎知識も無い人が大声を上げて混乱を招いているように思います。
本作でよく覚えているのは
死人を運ぶ大八車が猛スピードで走っていくのと、豪雪地帯を強い信念で歩いた笠原らの姿です。
https://blog.goo.ne.jp/mikawinny/e/8b1341a59787098fdde1615a8544318d
為政者と専門家の関係は、昔も今もあまり変わっていないような気もします。為政者の都合で、医学的な重大さが無視されるあたりは、今もありうることでしょう。情報化社会の今は、逆に専門家を弾除けに使い、実際には都合の良いところだけをつまみ食いするため、あまり実際の効果が上がらない、あたりかな。