早川書房のハヤカワepi文庫で、カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』を読みました。はじめのうちは、思春期の子供の世界を描いた物語になるのかな、と思いましたが、途中でこれは重いテーマの話なのだと感じました。要するに、臓器提供のために育てられている子どもたちの話です。
「わたしを離さないで」はカセットテープに収録された曲の題名(*1)です。ジュディ・ブリッジウォーターの「夜に聞く歌」というLPレコード(1956年)で発売されましたが、主人公が持っていたのはカセットテープ版という設定で、「スローで、ミッドナイトで、アメリカン」(p.110)な曲を、「ネバーレットミーゴー…オー、ベイビー、ベイビー…わたしを離さないで…」のリフレインが何度も繰り返されるところに惹かれた少女が、寮のポータブルカセットプレーヤーでこっそり踊りながら聴いているところを、「マダム」(理事長のような女性)に知られてしまいます。ベイビーが恋人ではなく赤ちゃんであると思っている年頃に、そのカセットテープが紛失し、ついに見つかりません。
ウォークマンが普及している時代、1990年代末のイギリスが舞台です。たぶん、臓器移植のために育てられている子どもたちが、「わたしを離さないで」と踊る場面を目撃した理事長?が、先生たちに密かにテープを処分するように命じたのでしょう。第1部:「ヘールシャム」は、子どもたちをよりよい環境で教育し育てようとする善意の施設で、臓器の「提供」が始まるまで疑問を持たず受け入れることができるように注意深く教育されることになります。第2部:「コテージ」は、学校と寮を出た後に、少しの期間暮らすことになるコテージでの生活です。ここでのテーマは「猶予は存在するのか」。自分たちの運命を受け入れようとしながら深いところでは受け入れることができない、葛藤が描かれます。第3部:「介護人として」は、臓器の提供者を支える立場にある介護人と、学校の仲間であり恋人でもあった青年との切ない関係が描かれます。最後までカタルシスのような解決は訪れません。
物語も最後に近づいた頃、トミーが暗闇の中で大荒れに荒れて暴れる場面があります。運命に対して、喚き、悪態をつき、暴れる。自分が誰かのコピーで、臓器を提供するために生まれ、育てられ、何度か臓器を提供した後に死ななければならず、「提供者」が心を持っていることすら考えるものは少ないという事態。たしかに、暴れたくなります。ヘールシャムの教育の中では、おそらく図書室にもデュマの『モンテ・クリスト伯』などは注意深く取り除かれていたのでしょう。でも、彼らは提供者としての役割を果たし、介護人は彼らに寄り添っていくのです。
クローン羊「ドリー」が登場した際のインパクトはきわめて大きいものがありました。臓器移植をすれば助かると知った人々が、その臓器を「生産」することを望むとき、その手段としてクローン技術を採用したら、どのような未来が起こりうるのかを心理的な緻密さで描いた物語でしょう。生産されるクローン人間に、良い環境と教育を与えようと努力する一部の人々の善意は、ある意味で残酷なものです。でも、それさえも、今よりも優秀な人間のクローンを作り出そうとする営みを危険視するようになった社会の変化によって潰えます。ひじょうにリアリティのある悪夢のような状況を、実に緻密に描き出していると思います。
ただし、臓器を自分の細胞で体内で再生することができたら、たぶんわざわざクローン人間を生産するというような必要はないのではなかろうか。作家の想像力の方向とは別に、再生医学としてそんな方向性もあろうかと思います。
それと同時に、臓器を次々に取り替えて長く生きられるようになったとして、さて自分はそんなに生きたいだろうかとも考えてしまいます。若くして病に倒れた人ならば話は別ですが、いつまでも分裂増殖し続ける生殖細胞ではあるまいし、生きるのにくたびれてしまうような気がしてなりません。ほどよく終わりのある個体の人生だから良いのではなかろうか。
(*1):YouTube に、この曲がありました。
わたしを離さないで / Never Let Me Go ジュディ・ブリッジウォーター
「わたしを離さないで」はカセットテープに収録された曲の題名(*1)です。ジュディ・ブリッジウォーターの「夜に聞く歌」というLPレコード(1956年)で発売されましたが、主人公が持っていたのはカセットテープ版という設定で、「スローで、ミッドナイトで、アメリカン」(p.110)な曲を、「ネバーレットミーゴー…オー、ベイビー、ベイビー…わたしを離さないで…」のリフレインが何度も繰り返されるところに惹かれた少女が、寮のポータブルカセットプレーヤーでこっそり踊りながら聴いているところを、「マダム」(理事長のような女性)に知られてしまいます。ベイビーが恋人ではなく赤ちゃんであると思っている年頃に、そのカセットテープが紛失し、ついに見つかりません。
ウォークマンが普及している時代、1990年代末のイギリスが舞台です。たぶん、臓器移植のために育てられている子どもたちが、「わたしを離さないで」と踊る場面を目撃した理事長?が、先生たちに密かにテープを処分するように命じたのでしょう。第1部:「ヘールシャム」は、子どもたちをよりよい環境で教育し育てようとする善意の施設で、臓器の「提供」が始まるまで疑問を持たず受け入れることができるように注意深く教育されることになります。第2部:「コテージ」は、学校と寮を出た後に、少しの期間暮らすことになるコテージでの生活です。ここでのテーマは「猶予は存在するのか」。自分たちの運命を受け入れようとしながら深いところでは受け入れることができない、葛藤が描かれます。第3部:「介護人として」は、臓器の提供者を支える立場にある介護人と、学校の仲間であり恋人でもあった青年との切ない関係が描かれます。最後までカタルシスのような解決は訪れません。
物語も最後に近づいた頃、トミーが暗闇の中で大荒れに荒れて暴れる場面があります。運命に対して、喚き、悪態をつき、暴れる。自分が誰かのコピーで、臓器を提供するために生まれ、育てられ、何度か臓器を提供した後に死ななければならず、「提供者」が心を持っていることすら考えるものは少ないという事態。たしかに、暴れたくなります。ヘールシャムの教育の中では、おそらく図書室にもデュマの『モンテ・クリスト伯』などは注意深く取り除かれていたのでしょう。でも、彼らは提供者としての役割を果たし、介護人は彼らに寄り添っていくのです。
クローン羊「ドリー」が登場した際のインパクトはきわめて大きいものがありました。臓器移植をすれば助かると知った人々が、その臓器を「生産」することを望むとき、その手段としてクローン技術を採用したら、どのような未来が起こりうるのかを心理的な緻密さで描いた物語でしょう。生産されるクローン人間に、良い環境と教育を与えようと努力する一部の人々の善意は、ある意味で残酷なものです。でも、それさえも、今よりも優秀な人間のクローンを作り出そうとする営みを危険視するようになった社会の変化によって潰えます。ひじょうにリアリティのある悪夢のような状況を、実に緻密に描き出していると思います。
ただし、臓器を自分の細胞で体内で再生することができたら、たぶんわざわざクローン人間を生産するというような必要はないのではなかろうか。作家の想像力の方向とは別に、再生医学としてそんな方向性もあろうかと思います。
それと同時に、臓器を次々に取り替えて長く生きられるようになったとして、さて自分はそんなに生きたいだろうかとも考えてしまいます。若くして病に倒れた人ならば話は別ですが、いつまでも分裂増殖し続ける生殖細胞ではあるまいし、生きるのにくたびれてしまうような気がしてなりません。ほどよく終わりのある個体の人生だから良いのではなかろうか。
(*1):YouTube に、この曲がありました。
わたしを離さないで / Never Let Me Go ジュディ・ブリッジウォーター
けれどそろそろ私の臓器も役立たずになる年齢になってきました(汗)
以前、息子が自分の臓器は自分と同年代又は年下の人に提供したい、と言っていたのを思い出します。
となると、『培養』された若い男女の臓器ならその辺り関係なく移植できるのでしょうか。
とにかく様々なことを考えさせられる内容でしたね。
>ほどよく終わりのある個体の人生だから良いのではなかろうか
全く同感です!
カズオ・イシグロの代表作の一つかと思います。読むのが辛いが読後感は充実していました。