電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ヒルトン『心の旅路』の文庫本を発見

2007年04月17日 06時30分23秒 | 読書
以前、映画「心の旅路」の記事(*)を投稿しましたが、持っていたはずの原作の文庫本、ヒルトン『心の旅路』(原題:Random Harvest)が見当たらず、探しておりました。
このたび、子どもの部屋の押入れを片付けていたところ、文庫本の束が見つかりました。岩波文庫でデュマの『三銃士』、ハリソン・フォード主演の映画『逃亡者』のノヴェライズ版、同じく映画の原作となった『シンドラーのリスト』など、どうも子どもが父親の本棚から物色して持ち出していたもよう。その中に、ずっと探していたヒルトンの『心の旅路』がありました。
奥付けを調べてみると、

ヒルトン著『心の旅路』、安達昭雄訳
昭和52年1月20日、五版発行、角川文庫

とあります。末尾の読了の日付を見ると、初めてこの文庫本を読みおえたのは1978年の9月で、その後3度読了しており、最も新しいのが1989年。また読み始めるならば、実に18年ぶりになります。子どもには、ページが黄色に変色した、古臭い文庫本としか見えないでしょうが、こうなると貴重ですね。

(*):映画「心の旅路」を見る~「電網郊外散歩道」の記事
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ビゼー「交響曲ハ長調」を聞く

2007年04月16日 06時32分19秒 | -オーケストラ
風邪を引いた回復期には、重たく苦しい音楽は敬遠したくなります。通勤の音楽も、しばらくビゼーの「交響曲ハ長調」を聞いておりました。ネヴィル・マリナー指揮アカデミー管弦楽団(Academy of St. Martin-in-the-Fields)の演奏、TOCE-4010という型番の東芝EMIの廉価盤CDです。今の季節感にもよくあう音楽です。

第1楽章、アレグロ・ヴィヴォ。軽快な弦の動きに、ロッシーニの序曲のような風味も感じます。
第2楽章、アダージョ、セリア・ニクリン:オーボエ。序奏に続くオーボエの旋律が本当に素晴らしい。中間部の弦のメロディーも、思わず聞き惚れます。
第3楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェ~トリオ。はつらつとした旋律とリズム。若いということは、うらやましいことです。
第4楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェ。細やかで早いパッセージで始まり、軽やかな足取りといきいきとしたリズムが快い、快活な音楽です。

Wikipediaによれば(*)、作曲年代は1855年、ビゼー17歳だそうです!パリ音楽院在学中のものだそうですが、80年後に楽譜が発見され、1835年にワインガルトナーによって初演されたとか。実にチャーミングな音楽です。

作曲当時の状況は、R.シューマンはまだ存命で、没する前年。ワーグナーは「ラインの黄金」を完成した頃でしょうか。ブラームスはまだピアノ協奏曲第1番を発表しておりません。ロマン派音楽の爛熟期にさしかかる頃に咲いた、若々しいガーベラの花といった風情です。

録音は1992年、アビーロード・スタジオで収録されたもの。

(*):交響曲(ビゼー)~Wikipediaより
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山響第180回定期演奏会でフランス音楽を聴く

2007年04月15日 20時28分03秒 | -オーケストラ
たまに有名オーケストラが来演することがあっても、毎度毎度似たようなプログラムでは、いまひとつ魅力がうすいものです。オーケストラが地元に根付いていることによる嬉しい影響の一つに、曲目の多様性があげられます。たとえば今回の山響第180回定期演奏会「珠玉のフランス音楽の玉手箱」と題した特集。プログラムは、

ラヴェル 組曲「クープランの墓」
ピエルネ ハープ小協奏曲 作品39
~休憩~
ラヴェル 「マ・メール・ロワ」組曲
ドビュッシー 子供のためのバレエ音楽「おもちゃ箱」

というものです。一晩でこれだけの音楽を聴くことができる機会は、そう多くはないでしょう。

指揮は黒岩英臣さん、コンサートマスターは犬伏亜里さん、ハープ小協奏曲のソロは竹松舞さん。会場は、山形県民会館です。いつものプレトークはなしで、「クープランの墓」から始まりました。
第1曲、「プレリュード」。パーカッションがなく、弦と管のみ。木管の後に、弦がゆらゆら揺れるような旋律を奏で、ハープも入ります。感覚的な響きです。
第2曲、「フォルラーヌ」。初期のプロコフィエフなどにも共通する、不思議な音階、和声感。ヒョコヒョコと道化た歩き方を思わせるリズムが面白いです。
第3曲、「メヌエット」。オーボエとファゴットの音色がなんともすてきです。曲の終わり方に余韻があり、しゃれています。
第4曲、「リゴードン」。活気のある始まりです。金管も出番が出来て、途中には中東ふう、あるいはモロッコ風の音楽も。弦のピチカートとオーボエのところは素晴らしかった。拍手も当然でしょう。

ピエルネのハープ小協奏曲では、指揮者の左に並んだハープに、あらためてデカイと感じました。ハープを弾きこなすには、かなりの体力がいりそうです。純白のドレスの竹松舞さん、この三月に順天堂大学医学部を卒業したばかりなのだそうで、実はお医者さんの卵なのだとか。ステージ上をすたすたと歩く様子が、なんとも「歩くの速~い!」。やっぱり忙しいお医者さんの生活に適応しているのでしょうか。

ハープという楽器は印象的な音色ですが、音量はあまり大きくありません。デッドなホールの特性もあるのでしょうが、オーケストラが静かに奏する場面でハープが活躍するように書かれているようです。優雅に見えますが、けっこう大変そうな楽器ですね。この曲には、音色の感覚的な楽しみは多く、音響的に優れたテルサホールならもっと後ろまで小さい音も聞こえたのではないかと思います。

休憩時には、クロワッサンとコーヒーで軽食。ほっとしていたら、旧知の方と遭遇。今も社会人合唱の指導をしておられるとか。地元の演奏会では、こんな楽しみもあります。まずはお元気そうでなによりでした。

後半はラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲から。トランペットやトロンボーンのいない音楽を、黒岩さんは指揮棒なしでていねいに音をつむいでいきます。ホルンはときどきミュートがかかるようで、やわらかい響きに終始します。犬伏亜里さんのヴァイオリン・ソロと管の対話が美しい。

ドビュッシーの「おもちゃ箱」では、黒岩さん、指揮棒を持って登場。トランペットやピアノ等が加わります。弱音の弦にピアノの印象的な音、そしてフルート。うわ~ドビュッシーだ。響きがとても澄んでいます。弦楽合奏の中にトライアングルが響くように、あまり多くの音が重ならず、響きが濁りません。一種、神秘的な印象も受けます。

盛大な拍手に答え、ハープやトロンボーン等も加わり、フルメンバーでアンコール。

グノー 歌劇「ファウスト」より第5曲「バレエ」

今回も、いい演奏会でした。



それと、ロビーで山形交響楽団のCD等のほかに、山響グッズを販売していました。今回は、山響ロゴの入ったクリアファイルを二種類、購入してきました。資料を持参するときなど、さりげなくみせびらかしたいと思います(^o^)/
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映画「奥様は魔女」を見る

2007年04月14日 08時59分57秒 | 映画TVドラマ
テレビがまだ白黒だった時代、人気があった番組に、「奥様は魔女」というものがありました。可愛い奥様のサマンサ(実は魔女)に、優しいダンナサマという組み合わせで、毎回魔法をチラリと見せながら、いつ隣人に正体がバレるのかとハラハラさせるのです。ちょっぴり大人のお色気もあり、子どもながらに楽しい番組だと思って見ていました。

先日、行きつけのCDショップで、例の著作権切れの500円DVDの中から、「奥様は魔女」を見つけました。残念ながら、例のテレビ番組ではなく、サマンサとダーリンの出会いのきっかけとなったお話らしいです。

始まりは魔女狩りのシーンから。焼かれて煙になった魔女とその父親が、魔女を告発した青年に、「恋事が成就しない」呪いをかけます。何世代かの後、雷で復活した魔女父子は、うらみ重なる男の子孫にたたろうと計画したのが、「惚れ薬」。若い男を魔女に一目ぼれさせ、冷たくむごく扱って意趣返しをしようという計画です。ところが、誤って魔女サマンサのほうが惚れ薬を飲んでしまうのですね。「ダーリン命!」になってしまうわけです。激怒する父・悪魔が敵役になるのですが、絶体絶命の窮地に立ったところからの解決が、昔の名作ドラマらしく、お見事です。ほろりとさせ、ニヤリとさせる。うまいですね。

著作権保護期間が過ぎて公共の財産となった過去の名作、カットなどのない形で安価に提供してもらえるのであれば、実にありがたいことです。

写真は、今が花盛りのわが家の梅の花。夜の闇に浮かぶ梅は見事です。
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やっぱり録音は良いほうがありがたい

2007年04月13日 21時46分10秒 | クラシック音楽
歴史的な名演奏として記録された一回限りの演奏会のすごさもわからないではないのですが、やっぱり録音は良いほうがありがたいです。ねぼけたような音よりも明瞭な音、ぎすぎすした音よりも豊かな音、そしてのっぺりした平板な音よりも各楽器の配置が聞き取れる音。そんな録音が好ましいと感じます。演奏も大事、録音も大事。音楽LPやCDを収集する者としての、実は本音の部分かも。

ただし、録音談義は難しい。録音のよしあしについても、どうも普遍性のある定義が難しいようです。自分はこう感じた、ということしかいえません。

まだ若い頃に、許可を得てオーケストラの生録音に挑戦したことがありますが、手持ちの機材を寄せ集め、何本かのコンデンサ・マイクロホンを立ててミキサーでミキシングし、録音したテープをプレイバックすると、なんとも情けない録音です。機材の差、マイクセッティングの差、ミキシング技術の差、会場の音響のとらえ方の差などなど、素人とプロの差をいやというほど感じました。

しかし、逆に言えば、そのレベルの録音のよしあしは、素人にもはっきりわかる、ということです。ほぼ同時代のAの録音とBの録音の違いは素人には難しいですが、1940年代の録音と1990年代の録音の違いは明瞭です。注意して聞けば、1960年代の録音が、やや古びて聞こえることも、認識できることです。

また、1960年代の録音は、演奏が素晴らしい場合には、しばらくすると気にならなくなってしまう。1940年代の歴史的録音は、資料的に聴く場合は別ですが、残念ながら聴いて楽しむには音の貧弱さを最後まで意識してしまう。そんな違いも感じます。
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都会では若者が車に魅力を感じないらしい

2007年04月12日 07時03分09秒 | 散歩外出ドライブ
春休みを利用して帰省した当方の息子は、昨冬に運転免許は取ったのですが、休みにもかかわらず車に関心を示しませんでした。当地では、運転免許を取るとすぐに、初心者マークで車を乗り回し、けっこうこわい思いをすることもあるのですが、どうもそういう興味関心が薄いようです。不思議に思っていましたが、先日、メーカーのエンジニアからカーステレオも売れない話を聞き、ようやくその謎が解けました。表題のとおり、都会では若者が車に魅力を感じていないらしいのです。

たしかに、そのへんの事情は推測できます。住居のほかに、駐車スペースを確保しなければならない。維持費もけっこう大変です。公共交通機関が発達しているので、移動には困らない。渋滞するよりずっといい。友人グループを乗せたりすると、駐車場を探しているうちに、自分だけいつも後から追いかけるはめになるのでしょう。いまどきの若者は、そんなカッコ悪いことをしたがらないのだそうな。

なるほど、電車が1時間に1本しか来ない田舎では、車は必須の交通手段です。長時間移動するには、カーステレオが重宝します。最近は、カーナビが普及しているので、映像のついたDVDが主流らしいのですが、運転中に映像に見とれ、事故を誘発するおそれはないのだろうか。中年おじんにはちょいと抵抗があります。こうやって、時代に取り残されていくのかもしれませんが(^_^;)>poripori
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寝床の中でも書けるボールペン

2007年04月11日 06時22分56秒 | 手帳文具書斎
以前、何度か三菱のパワータンクというボールペンの話題を取り上げました(*1,2)。インク・リフィル内部に窒素充填されており、上向きでも、寝床の中でも書けるボールペンです。これは、とっさの場面でどんな姿勢でも書けるため、ふだん上着の内ポケットに入れて愛用しています。

ただし、このボールペンの良さは認めるものの、軸(?本体)があまりにも高価で、買い増しする気にはなれませんでした。そのうち普及用が出てくるのだろうと思っていましたが、やっぱりあったのですね。行きつけの文具店で見つけました、三菱ユニのパワータンク太字(1.0m/m)の黒と青(200円)。最近のゲルインク・ボールペンの書き味を知ってしまうと、油性インクの書き味はやや重いと感じますが、それ以上に寝床の中でも書けるメリットは他にないものです。風邪を引いて寝ているときなど、仰向けに寝転がったままでも、小型(B6判)のノートに読んだ本の要点を自在にメモすることができます。これは便利です。

『風の果て』上下巻を、例によって読み終えるそばから要点をメモしていったら、二本の記事になりました。

(*1):午後から外出、成果は~「電網郊外散歩道」
(*2):メモは記憶力の減退をカバーする~「電網郊外散歩道」
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藤沢周平『風の果て』下巻を読む

2007年04月10日 06時56分07秒 | -藤沢周平
文春文庫版、藤沢周平著『風の果て』下巻は、物語の転機となる町見家の田口半平の来訪準備から始まります。町見家とは、今で言う測量技術者のことでしょう。

若い田口は、阿蘭陀流の町見術を修めていますが、まだ藩内では顔も名も知られてはいません。代官に昇進している桑山隼太は、太蔵ヶ原に水を引き、三千町歩の美田を実現し、藩政の一角に食い込みたいのです。田口の護衛役を頼んだ野瀬市之丞に鼻で笑われても、苛政を少しでも和らげることができれば、と願うのでした。しかし、凶作続きのある年に、苛政にあえぐ百姓の不穏な動きに対し素早く的確に対処した桑山隼太に対して藩首脳が示したのは、左遷人事でした。

転機となったのは、田口半平から届いた図面と、杉山中兵衛を中心とする大黒派追い落としの政変です。執政の座に就いた杉山は、桑山隼太を郡奉行に任命しますが、野瀬市之丞にはなんの褒賞もありませんでした。そういえば、命に服さない旧大黒家老とその息子を葬ったのは野瀬市之丞でしたが、あの日の政変劇の際にも、野瀬はひそかに暗躍しておりました。

杉山は、太蔵ヶ原の開墾費用を、国元の政商・羽太屋重兵衛に出させるという隼太の案を認め、開墾事業の進展とともに藩主も桑山隼太という存在に次第に信任を厚くします。郡奉行から郡代に進み、さらに中老に推挙される頃、旧友杉山忠兵衛は隼太をライバルと見なしはじめますが、隼太はじっと機をうかがいます。最大の政変劇は、藩主と家臣団の居並ぶ前で演じられ、ドラマチックかつ見事です。

政敵・杉山を追い落とした後の執政としての藩政の苦労は、やはりかわりがありません。財政問題には、特定の悪役などいないからです。そんな中に行われた旧友・野瀬市之丞との果し合いの情景には、老年に入った者の、取り返しのつかない年月の重みが描かれているようです。

本文中(p.51)より、まだ敵味方に分かれる前の野瀬市之丞との対話。

それにしても、過ぎ去ったつつましい思い出が、消えるどころか、だんだん好ましさを増して思い出されて来るのはなぜだろうか。
「そうか」
気を取り直して隼太は言った。
「おれは愚痴を言ったりしちゃいかんのだな」
「愚痴なんぞ言うな、おれも言わん」
市之丞が酔いの回った声で言った。二人は比丘尼町から肴町の表通りに出ていた。そのまま行けば青柳町で、市之丞はその前に横町に入らないと、家に遠くなる。
「おれはおれの道、おまえさんはおまえさんの道を行くしかない。ひとそれぞれだ。いちいち後悔してもはじまらん」
通行人の姿もない道に、市之丞の声がひびきわたった。そして市之丞は、不意に片手を上げると、右手に現れた路地に入っていった。

このあたりの余韻は、中年の感傷とばかりは言えない気がします。
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藤沢周平『風の果て』上巻を読む

2007年04月09日 06時48分08秒 | -藤沢周平
文春文庫版の藤沢周平著『風の果て』上巻を読みました。何度目かの読了ですが、読むたびに面白く、発見があります。

藩の重責をになう首席家老桑山又左衛門は、若い頃、上村家の次男坊で、隼太といいましたが、当時の剣道修行の仲間の一人、野瀬市之丞に、果し状を突き付けられます。物語は、そこから回想と現在とが交互に入り混じる形で展開されます。桑山又左衛門の名で登場する場面は現在、上村隼太の名で描かれるのが過去の回想場面。

野瀬市之丞は片貝道場の同門で、他に一蔵、庄六、という貧乏な部屋住みの次男坊三男坊のほか、一千石の名門杉山家の跡取りである杉山鹿之助が仲間に加わっていました。上村隼太は、杉山・野瀬らとともにかつての実力者楢岡図書の屋敷に行き、窮乏の度を深める藩政を救う道として、桑山孫助の名とともに太蔵ヶ原の開墾の話を聞きます。台地に水を引くことができれば、数千町歩の美田ができると夢見るのです。

やがて杉山鹿之助は楢岡図書の娘千加を娶り、家督をつぎます。かつての道場仲間も身分と家柄による隔たりが明らかとなっていきます。一蔵は年上の美貌の後家のもとに婿入りしますが、隼太はその相手が実は身持ちの悪い女だと旧友に告げられずにいました。仲間と別れ、酔って家に帰ると、既に寝静まっており、三つ年上の出戻り女中のふきが入れてくれました。隼太は酔った勢いでふきを抱きしめますが、ふきは隼太を受け入れます。実はひそかに隼太を愛していたからです。


太蔵ヶ原を見に行った折に、隼太は桑山孫助に出会います。当時権力の座にあった小黒家老の息子と凶暴な家士が桑山孫助を棒で打ち、隼太がこれに立ち向かったことから、孫助は隼太に、桑山の婿になれ、そして郡奉行・郡代になって権力の一角に食い込めと教えます。隼太は孫助の家に婿入りし桑山の姓を名乗りますが、どうも家付き娘はわがままで世間知らずだったようで、隼太の真情が別の女性にあったことまでは気づかなかったようです。

宮坂の後家に婿入りした一蔵が、妻の不倫の相手を斬ったことから、野瀬市之丞は旧友が残酷に切り刻まれることを黙視できず、切腹させようと討手に加わることを承諾します。しかし、結果的には生来の偏屈の度合を増すだけの、無惨な結果に終わるのでした。

一方、小黒家老らが計画した太蔵ヶ原の無理な開墾計画は、第一人者の桑山孫助の反対にもかかわらず実行されますが、地滑りにより下流の村の五戸が流され、死者を出す結果となり、中止されます。

物語は、桑山又左衛門という名の現在と、隼太という名の回想が交互に入れ替わる形で進みます。杉山鹿之助改め杉山忠兵衛が又左衛門の最大の政敵として失脚していること、刺客が放たれたこと、などの事情が少しずつ明かされますが、今は小料理屋「卯の花」のおかみとして店を切盛りするふきが、気持ちのよき理解者です。店の帰りに襲撃され、ふと市之丞が飼われていたのは、実は別な人物だったのではないかとの疑念が浮かびます。



ミステリーの手法を取り入れ、現在と回想を交替しながら進む物語は、同時に権力の座に近付く若者と、権力の座に坐る壮年の隔たりを明らかにしています。桑山の家での妻・満江との溝や義母を含む家庭の不和、ふきの変わらぬ一途な思慕と心を許す又左衛門の真情など、内容も豊富な堂々たる傑作です。
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フォーレ「ピアノ四重奏曲第1番」を聴く

2007年04月08日 07時18分47秒 | -室内楽
風邪をひいて寝ている間は、深刻な音楽は頭痛にひびきます。とはいうものの、ラジオの、毒にも薬にもならないおしゃべりも、さすがに終日となると飽きてしまいます。

で、昔よく聴いたフォーレの室内楽を、枕元のCDラジカセで繰り返し聴きました。演奏は、ジャン・フィリップ・コラール(Pf)、オーギュスタン・デュメイ(Vn)、ブルーノ・パスキエ(Vla)、フレデリック・ロデオン(Vc)、EMIの廉価2枚組のCDです。

第1楽章、アレグロ・モルト・モデラート。付点リズムの第1主題の魅力的なこと!以後、この主題が何度も姿を変えて出てくるのを探すのが面白く楽しいものです。フォーレの和声の魅力は、初期のころから持っていたもののよう。
第2楽章、スケルツォ。軽やかなピアノに乗って、例の主題が変奏されます。曲は、終わったかな~と思うとまた始まり、トリオ部へ。
第3楽章、ピアノと弦の低~内声部の静かな対話で始まるアダージョ。ヴァイオリンが入ってくると、ピアノを含めた美しい歌謡的な音楽に変わります。
第4楽章、アレグロ・モルト。出だしはやっぱり例の主題のリズムです。第2主題も登場し、活気ある音楽の最後は、力強いピアノがしめくくるように活躍して終わります。

このピアノ四重奏曲第1番は、1876年~79年頃に書かれたらしいとのことですが、作曲者フォーレが30代はじめ頃でしょう。Wikipediaによれば一方的に婚約を破棄された時期の作だとか。ベートーヴェンやシューマンなら、交響曲第1番やピアノ協奏曲第1番、あるいは交響曲第1番「春」など晴れやかな音楽を書いていた頃でしょうから、どこか憂愁を感じさせるのはそのせいでしょうか。この曲を聴くとき、時に軽薄に傾くきらいはあったが軽やかだった、自分の若かった時代をふと思い出してしまう、優れた作品だと思います。

このCDで残念なのは、素晴らしいピアノ五重奏曲第1番が、第1楽章だけCD-1に収録され、以後の楽章がCD-2に泣き別れしていること。若い頃に苦労して買い求めた五枚組LP、ジャン・ユボーらの「フォーレ室内楽全集」では、ちゃんとピアノ四重奏曲が一枚の裏表に収録されています。こんな非音楽的なカップリングを誰が決めたんだ~!といきまいても、裏面を確かめなかったアンタが悪い、と言われるんでしょうなぁ。
でもまぁ、風邪をひいて枕元でLPを聴くことはできませんので、ピアノ五重奏曲第1番はあきらめます(^_^;)>poripori

■ジャン・フィリップ・コラール(Pf)盤
I=9'47" II=5'39" III=8'14" IV=7'54" total=31'25"
■ジャン・ユボー(Pf)、レイモン・ガロワ=モンブラン(Vn)、コレット・ルキアン(Vla)、アンドレ・ナヴァラ(Vc)盤 (Erato ERX-7204~8)
I=9'07" II=5'34" III=7'45" IV=8'09" total=30'35"
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『藤沢周平未刊行初期短篇』を読む

2007年04月07日 18時25分08秒 | -藤沢周平
購入してしばらく、読もう読もうと思いながら積ん読していた『藤沢周平未刊行初期短篇』を読みました。昭和37年11月から39年の8月号の月刊雑誌に発表された、藤沢周平が最初の夫人である悦子さんと暮らした時期、しかも娘が生まれ(38年2月)妻が病死する(38年10月)、まさにその時期の作品群です。風邪でゆっくり寝ていた時間が、思いがけず役立ちました。

最初の二編、「暗闘風の陣」「如月伊十郎」は、隠れ切支丹に題材を取った作品。とはいっても、別に信仰や棄教の葛藤などを扱ったものではなく、単に秘密の忍び集団の黒幕が隠れ切支丹だという、やや通俗的な設定です。
「木地師宗吉」は、こけし職人宗吉とその兄の話。武士の時代もこけしのコンテストがあったようで、出品するこけしに弟はアオハダを使いますが、割れてしまいます。やまつつじを使えと言った無頼の兄は殺されてしまいますが、妹のように育ってきたお雪をモデルに、宗吉はやわらかい曲線を描く新しいこけしを作ります。
「霧の壁」:心に傷を受けて婚家を去ったお文が心を寄せた宗次郎は、黙々と垣根を結う植木職人でした。市井の材木問屋を舞台にした悲恋。
「老彫刻師の死」は、珍しく古代エジプトが舞台。男と女の愛憎が、世代を超えて再現されます。後年には見られない種類の内容で、異色作でしょう。
「木曽の旅人」では、老いた香具師が故郷に帰って来ます。置き去りにした女には娘がいました。そして、その娘に近付こうとする害虫も。父親らしいことはできないがせめて、という股旅ものです。
「残照十五里ヶ原」:酒井氏入部以前に庄内地方を支配した武藤氏に対し、前森氏兄弟がこれに叛きます。弟勝正の脳裏には、奪われた婚約者の姿がありました。越後・上杉氏と山形・最上氏に挟まれた歴史を背景にした武家歴史ものです。舞台となった尾浦城は、現在の鶴岡市大山の、テレビ塔のある高舘山あたりにあったものでしょうか。悲劇的な造型は、この頃からすでに見事なものでした。
「忍者失格」は、忍びの宿命を嫌い、雪太郎と香苗が忍びを捨てるまでを描きます。教職に復帰することを望みながらかなわず、教師失格と自嘲する藤沢周平と悦子夫人の姿が投影されるようです。
「空蝉の女」:表題は蝉のぬけがらのようになってしまった女、という意味でしょうか。夫は寄りつかず、同情してくれた新次は若い美輪の元に去ります。お幸の胸に隙間風が吹いています。
「佐賀屋喜七」:悪妻お園と喜七の溝は、なぜにこうも深まったものでしょうか。物語に描かれない部分があったのでしょう。ちょうど病妻の逝去の頃に書かれたであろう物語です。救いがないのはこのためか。
「待っている」:島帰りの男が、ささやかな幸せを得ます。だが病気の父親と女房と娘との生活のために、昔の腕を見込まれ、一回限りといかさま博打を承知しますが、露見して殺されます。これも救いのない物語です。
「上意討」:上意により討手を差し向けることになったとき、家老の頭に浮かんだのは金谷範兵衛の姿でした。範兵衛は妻女を逃がし、見事に上意討を果たしますが、そのまま逃亡します。幕府が放った隠密を利用して上意討を果たし、ついでに隠密を始末するという策は、範兵衛に読まれていたのでした。
「ひでこ節」は、今の温海温泉、湯温海を舞台にした物語です。素朴な温海人形を作る人形師長次郎は、ふとしたことでお才という娘を助け、やがてともに暮らし始めます。しかし、旅の一座の父親がお才を連れ去って三年後、お才がたった一人で帰ってきます。「ひでこ節」の唄が「違うとる」と言ったお才の姿に、心身ともに病の回復が見えています。
「無用の隠密」は、庄内浜・七窪を舞台とした、忘れ去られた隠密の解任の物語。もしかしたら今でもあるのでしょうね、スパイの命を受けて辺境に赴任し、中枢の交替劇などによりそのまま忘れ去られてしまう、ゾルゲのような例が。

「残照十五里ヶ原」の悲劇性、「上意討」の中にある抑制されたユーモア、「ひでこ節」に見られる再生への願いなど、心うたれるものがあります。藤沢周平ファンは、やはり読むべき短篇集だと感じました。
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風邪で寝込んでしまいました

2007年04月07日 10時42分59秒 | 健康
先日、珍しく風邪をひきました。一昨日は朝から喉がはれたような感じがありましたが、昼前には鼻水ツーツー、くしゃみ連発の事態となり、発熱の予感がしましたので、途中から休みを取り、帰宅して寝ておりました。案の定、昨日は体全体がだるく寒気がします。終日おとなしく寝ていたおかげで、ようやく最悪の時期は脱したもようです。
医者には行かず、うがいと睡眠のみ。水分補給を心がけ、発汗による脱水症状を防止し、朝晩ヨーグルトを食べて整腸剤がわりとし、ひたすら寝ておりました。薬で無理に熱を下げたり、鼻水を止めたりするよりも、経過は良好のように感じます。風邪にはとにかく寝ること、ですね。正直言って、週末で助かりました。



寝床の中で、『藤沢周平未刊行初期短篇』と『風の果て(上下)』を読みました。こういう状態では、ラジオと小型の本がありがたいです。
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小説新潮が吉村昭特集

2007年04月05日 06時18分40秒 | -吉村昭
小説新潮誌が、「矜持ある人生」と題して、吉村昭の特集を組んでいます。未発表原稿が二本発見されたので、それを掲載すると同時に、夫人の津村節子さんと瀬戸内寂聴さんなどが、対談を行っています。

新発見のエッセイは、連載「わたしの普段着」のために書かれたらしい、「男と女」「郷土史家への感謝」の二篇。

表紙が、書斎で本を広げる氏の写真です。たしか、夫人の津村節子さんの机も、この隣にあったはず。背中側には、火鉢のような和風の接客コーナーがあったように記憶しています。作家夫婦が、一緒の仕事場で仕事ができるか。これは、興味深いテーマです。わが家では、できません。始終音楽が鳴っているのと、キーボードを打つ音がうるさくて気が散るのだそうで、子供たちも逃げ出しました。では、吉村昭・津村節子夫婦の場合はどうだったのだろうか。

ここからは推測です。夫人のほうが先に世間に評価されたために、吉村昭氏は一時夫人に嫉妬します。しかしそれを恥じ、六畳間の一緒の部屋で、夫人に負けずに世間に認められる作品を書こうと、自分に言い聞かせるのです。有名作家となっても、別々の仕事室を持たなかったのは、もしかすると、そんな類の夫婦の約束があったのかもしれません。
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高嶋ちさ子『ヴァイオリニストの音楽案内~クラシック名曲50選』を読む

2007年04月04日 06時41分05秒 | クラシック音楽
PHP新書で、高嶋ちさ子『ヴァイオリニストの音楽案内~クラシック名曲50選』を読みました。クラシック音楽の案内書はたくさんありますが、この本は、現役の演奏家が書いた、たいそう個性的な本です。なんといっても、ベートーヴェンの交響曲第5番の解説につけた題名が「しつこい男だね」、ヴィヴァルディの「四季」では「弾いていたのはコギャルたち?」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が「じつはノミの心臓の持ち主」といった具合で、全編が音楽家どうしの爆笑内輪ネタのノリで書かれています。「音楽評論家からはけっして聞くことができない名言、迷言が満載」という表カバー見返しの内容紹介は、ウソではありません。たとえば、パガニーニの24のカプリースの解説は、タイトルこそ「悪魔と契約した男」とフツーですが、

女性関係も派手で、離婚の際、莫大な慰謝料をふんだくられ(中略)、それ以降、お金にはかなり執着心が出てきたようで、お金に汚いヴァイオリニストというイメージもついてしまったようです(ちなみに私も母にそう呼ばれています。パガニーニと一緒なんて、誇らしい!)。

といった具合。

でも、曲目の解説の内容はたいへんわかりやすく、納得できます。たとえば「部活のちょっとしたご褒美に」と題したドヴォルザークの弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」の解説では、

ハイドン、モーツァルトが終わり、次のベートーヴェンに行く前に、ちょっとしたご褒美でチャレンジする曲、それがこの《アメリカ》です。若い学生にはたまらないノリノリのかっこいい曲で、最初聴いた時は、「これクラシックなの?ありえな~い」と思ったぐらいポップです。

といった調子。「アメリカ」がポップ?なるほど、そう言われてみれば、思わず引き込まれる旋律は、そんな要素があるかもしれません。推薦されているCDも、ブラームスのヴァイオリン協奏曲がオイストラフ(Vn)+セル盤だったり、二重協奏曲がオイストラフ(Vn)・ロストロポーヴィチ(Vc)+セル盤だったりして、興味深い選択です。

高嶋ちさ子さん、妻はテレビでおなじみだそうですが、残念ながらテレビをほとんど見ない私には、著者の世代は不詳です。でも、7歳当時の発表会の写真をみると、黄色いヘアピンと膝小僧がのぞく赤いチェックのショート・ワンピースを着ています。このオーソドックスで可愛らしいスタイルが流行したのは70年代だと記憶していますので、たぶん60年代末頃の生まれかと推理しました。さらに、81頁には決め手となる記述を発見。

「私も今年でロッシーニが音楽界から身を引いた年になります。」

本書が書かれた年が2005年ですので、ここから逆算すると、1968年生まれと推定できます。ワトソン君、やったね (^o^)/

残念ながら、まだ高嶋さんの実演に接したことがありませんが、機会があれば、愉快なトークと演奏を楽しみたいものです。写真は先月の送別会の会場にて。
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NHKの芸術劇場で藤原歌劇団の「ボエーム」を見る

2007年04月03日 06時46分36秒 | -オペラ・声楽
日曜日の芸術劇場、今週は藤原歌劇団の「ボエーム」でした。砂川涼子さんのミミ。彼女は沖縄県の出身で、音大に入るまで生のオペラに接したことがなかったとか。なかなか可憐なミミでした。岩田達宗さんの演出も、1830年代のフランスではなくて、日本人の青春を演じてくれ、という注文だったそうで、意図は明確に現れていたと思います。

かわいそうなお針子ミミが死んでしまう物語ではなくて、それまで疎外されていたミミがロドルフォらと知り合い、愛し合い、生きはじめた物語、ととらえた演出だそうです。結局はミミの死で終わるわけですが、青春を充分に生きた物語と理解したい、ということでしょうか。

第1幕、カルチェ・ラタンに住むボヘミアンの若者たちの生活群像には、このオペラを見るたびに、思わず「いつか見た光景」のように感じてしまいます(^o^)/
火を借りに来るミミは、同じ建物に住むロドルフォたちの貧しいが楽しそうな気配を、じっと見ていたのでしょう。ロドルフォが一人残ったのを見て、たぶん思い切って訪れたのですね。

第2幕、勝ち誇るムゼッタを見て、ミミが「あの人はマルチェルロを愛しているのね」と理解する場面、表面的な姿の内部にあるものを見抜くミミの洞察力に驚きます。しかし、ムゼッタの奔放な魅力は、わざとらしいコケティッシュな演技もそうですが、プッチーニの音楽の力によるところが大きいですね。

第3幕、貧しさから抜け出せない生活では、ミミの病は重くなるばかり、と悩むロドルフォと、真意を知ったミミの別れの二重唱に、ついホロリ。このあたりは、現代の若者たちにも普遍的な感情かもしれませんし、かつて若かった人には、なおさら心にしみる場面でしょう。

第4幕、死を前にロドルフォらの部屋に戻ったミミは、「この部屋はすてき」といいます。なぜか。貧しい、何もないみすぼらしい部屋が、なぜすてきなのか。たぶん、そこには四人の若者たちの生活があるから、なのでしょう。貧しさが結核を招きよせなかったら、もしかしたらともにありえたかもしれない生活。「外套の歌」が描く友情は、その象徴かもしれません。



異動など変化の時期ですが、幸いにもN響アワーは変化なし。池辺晋一郎さんも高橋美鈴アナウンサーも、交代はなさそうです。しかし「芸術劇場」は今週から金曜日の夜に移動するのだとか。森田美由紀アナウンサーも交代する模様。楽しみにしている日頃の習慣にもいろいろと変化の多い四月です。

当地には桜の便りはまだ届いておりません。写真は、先日の送別会で用意した花束。ちょいとムゼッタのイメージで。
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