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志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

安倍政権と仲井真知事や副知事が4.28式典の公文(式辞)の摺合せをしたこと、その意味すること!

2013-04-29 17:50:22 | 沖縄の過去・現在・未来

彼らは結託しているということである!(と、直感的に思うのだが違うのだろうか?)つまり全くスピーチ原稿になかった言葉を挿入させたということである。「沖縄の辛苦に思いを寄せる努力を」の文言でオスプレイの低空飛行による日常の戦場化が消えるわけではない。真に沖縄の辛苦に思いを寄せているならば、オスプレイ配備もありえないし地位協定の改定無視もありえないはずなのだ。しかしその文言と全く逆の現象の中にはめ込まれているのが沖縄の日常である。沖縄県代表の自民党国会議員の朗らかな演技が気になる。未来志向だという西銘さんと島尻さんは全くの中央志向だということが明らかになったね。沖縄県民の代表とはもはや言えない。国場さんと比嘉さんはまだ県民の思いに心を砕きながら議員を演じているのらしい。宮崎さんは「日本の平和が沖縄の負担の上に成り立っていることを全国民が知るべきだ」と発言している。基地の過剰押し付けがもたらしてきた犠牲(人権蹂躙や殺戮)は消えることはない。次は誰が犠牲になるのだろうか?アフガニスタンやイラクに送られた退役米軍人たちが大勢NATO会議の場で批判の集会も起こっているアメリカ。メダルを放棄するセレモニーを彼らはやっている。そうした世界の米軍事帝国の矛盾に向き合って闘っているアメリカ人、とも連帯して沖縄のこの矛盾の吹き溜まりのような島(異常な核付軍事基地)から島本来の自然を取り戻す方向へと突き進みたい。

下々の者たちの反発を抑えるために、ことばの修辞を取り交わしたということの意味する所は、仲井真、高良県政は日本中央にすり寄りつつ一般大衆の感情・怒り・鬱憤を抑える機能を互いに結託してすすめているということである。つまり『屈辱の日』への怒りが、うまく利用され、政治の綱渡りの中で軽んじられているということかもしれないね。琉球独立論が論議される根拠になる。つまりペテンがまかりとおっているのが日本や沖縄の政治中枢だということにもなるね。

二重にも三重にも多面的に日本中央と渡り合うための政治手法ということだが、普天間は即時閉鎖で、辺野古移設はとんでもない。仮面を被り演じあう政治家の演技力を凝視しよう。副知事は「日本の主権回復・国際社会復帰を記念する式典」に知事代理出席をし、仲井真知事は雲隠れ、『がてぃんならん』4・28式典1万人抗議≪4・28『屈辱の日』沖縄大会≫にも出席しなかった。つまり彼は一本の筋を通した政策で役割を演じているのではなく、うまく事大主義的に日本中央政府の演技(政策・動向)を伺いながら身を処している役者である。知事の役をしばらく演じているのであるが、何しろ何億円という一括交付金は東京から降りてくるので、身を盾にしての抵抗の演技ができないというわけである。生活の潤滑油である資金が人間の行動をまた縛っていくモデルを直に見せつけられているようだ。仲井真さんは沖縄のヒーロー≪瀬長亀次郎≫(1907-2010)にはなれない。中途半端にゆらゆらと時勢を伺う顔に財界人と政治家の両面をだぶらせて演じることが彼の役回りなのかもしれない。那覇市若狭に瀬長亀次郎さんの資料館『不屈館』というのができているのですね。戦後日本が現在に至るまでアメリカ(在番)のお目付け役をそばに経済復興を遂げてきたことが「あからさま」になればなるほど、米軍統治下で米軍の圧政と闘ったヒーローは甦ってくるのですね。なるほどです。彼に対して現在の沖縄県の立場は日和見的に見えるけれど、逆に日本総体を射ることのできる論理が生まれそうである。前泊博盛さんが書いた『日本地位協定入門』の書物のようにー。

日本の1%の琉球弧は日本の縮図でもあったのですね。

すべて演劇の論理・分析で見ることができるのは面白い。人はみな役割を演じている。大学で演劇が周縁化されているのがおかしい。演劇理論は幅が広く奥深い。生身の人間総体の舞台が論じられる。それも劇的空間ゆえに。映像と異なる演劇の力はそこに生身の集合性があるからである。人が集まるところ、祝祭性と娯楽の融合の中に基軸になる社会参加のエネルギーが渦巻いている。人が集いコミューナルな体験を共有する空間の持つ力がある。演劇論をまとめたい。と全く別のベクトルへ来てしまういつもの姿かな?

 


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