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『八月十五夜の茶屋』の原風景―ジュリと辻文化と沖縄のアイデンティティー

2019-05-14 23:04:47 | 「八月十五夜の茶屋」科研研究課題
             (甘い香りを放つ「くちなしの花」です!) 映画「八月十五夜の茶屋」の主人公ロータスを演じた京 マチ子さんが昨日逝去されたのですね。95歳です。父が大正10年生まれでした。京マチ子さんは大正15年生です。今日、京太郎さんからのコメントで、京マチ子さんと「八月十五夜の茶屋」を意識させられました。以前書いた論稿が「八月十五夜の茶屋」を打ち込むと登場しました。まだアクセスがあることに驚いたついでに、2014年11月7日20時38分23秒で前に投稿したものを現時間で再度UPして追悼にしたいと思います。でも芸者の京マチ子さんは沖縄の芸妓(ジュリ)ではないという論文です。映画の中の彼女は日本の芸者であり、沖縄の色合いはまったくない美しさです。でも映画「羅生門」や「雨月物語」など怪しい魅力はひきつけられますね。以下は以前書いた論稿で科研報告書『世界の中の「沖縄」演劇ー女優の表象を中心とした考察』(2008)の中に収録されています!    ***********************************

『八月十五夜の茶屋』の原風景

     ――ジュリと辻文化と沖縄のアイデンティティー(1)
                               
【はじめに】

   2008年1月18日、前年11月にオープンした沖縄県立博物館・美術館開館記念関連イベントの一つとして映画&トークが開催された。『神々の深き欲望』(監督・今村昌平、1968年)や『沖縄列島』(監督・東陽一、1969年)、などの映画と並んで『八月十五夜の茶屋』も上映された。アメリカでVTRになった映画は手元にあり、何度か見ているが、日本語字幕付きの映画の公開上映は、この間一度も沖縄で見たことがなかったゆえに、観客の反応にも関心があり足を運んだ。

 上映の前に美術館学芸員翁長直樹による解説があり、そこにいくらか示唆的な発言があった。氏によると、初めて沖縄で『八月十五夜の茶屋』が上映されたのは1957年3月27日から4月9日までの2週間である。当時洋画のフィルムを買いあげるのに一本1500ドルから2000ドルのところ、『八月十五夜の茶屋』は興行の成功を見込まれて8000ドルの高値で吊り上げられたが、沖縄の観客はあまりそれを受け入れなかったという。その理由は、「沖縄(人)の描き方を馬鹿にしている」とか、「沖縄人を植民地の人間として戯画化していることに反発した」などの批判があり、どうやら映画会社の國映興業も当初の目論見が外れたようである。その辺の理由はもっと詳細に検証したいと考えている。

 その後二度目の映画のお披露目は2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の「琉球電影列伝」の一つとして公開され、改めて仲里効(2)が「映画のエッセンスは占領者の計画の独善性を風刺する笑いと毒にある」(3)と再評価している。そして三度目が今回の上映だと、翁長は説明した。映画の背景に関してその映画の中に歴史家G・H・カーの『琉球の歴史』や当時のアメリカの東洋に関する知的ブレインのライシャワー博士やルイス・ヴェネディクトなどのアカデミックな研究の成果も、いかに占領民を支配するか、の点で映画に付与されている、などの興味深い発言もあったが、15分足らずの短い解説ゆえにイントロで終わった。しかし問題にしたい点は、翁長が、57年の沖縄での初公開が不評だった、という発言である。

 その点に関して最近「『八月十五夜の茶屋論』米軍沖縄統治とクイア・ポリティックス論」(『沖縄映画論』、作品社、2008年)を書いた新城郁夫はあえて「不評」の不在、の項目をあげて沖縄では手放しに近い賛辞と歓迎があったと、具体的に当時の新聞に掲載された川平朝申(4)や作家大城立裕の弁を引用している。

 果たして実際のところはどうだったのだろうか?仲里効は批評の中で戯曲(舞台)『八月十五夜の茶屋』事件に触れている。(5)それは54年、琉米文化交流の一環として米軍基地内の瑞慶覧劇場で上演された『八月十五夜の茶屋』は好評だったが、基地外の那覇でも公演を企画したところ、沖縄側からの反発で中止になった事件である。その件も当時琉球大学教授が新聞に否定的な批評を書いたことがひとつのキッカケになったようだ。しかしその事件を払拭するようにマーロン・ブランドや京マチ子主演の映画は別の視点を提示していると見る。

 仲里が問題にした問は、果たして映画に描かれた沖縄人像や沖縄観は屈辱的なのかどうか、屈辱的だと感じる沖縄サイドの反応はどうなのか、である。

 一般的に沖縄で拒絶された理由は、アメリカ軍による占領期において、アメリカの民主主義政策のプランとしてのペンタゴンと同じ五角形の学校を設立する目的が、沖縄住民の意向によって茶屋に変えられた、という点が大きい。沖縄の人間は教育に非常に関心が高く、学校ではなく茶屋を建てる筋書きは馬鹿にしている、ということになるようだ。しかしこれらはすべてある面で曖昧で印象批評の側面を持っている。実際はどうだったのか?

 新城郁夫が「不評」の不在を問い、翁長直樹が「映画は沖縄ではあまりヒットしなかった」と述べた映画『八月十五夜の茶屋』の沖縄での位置は、57年の初上映から50年たった現在新たな掘り起こしと位置づけがなされようとしている。おそらく映画や舞台の原点になった終戦直後の沖縄、そして作家バーン・スナイダーの沖縄体験とそこから立ち上がった小説、そして50年代のブロードウェイで1027回上演されたという戯曲(舞台)を再考しないとその核心に迫ることは不可能だろう。付け加えて、ブロードウェイ上演と同時期に沖縄米軍基地内の瑞慶覧劇場などで15回上演された舞台も検証する必要があるだろう。

 この間『八月十五夜の茶屋』に関してここで紹介した方々の他にも三島由紀夫や沖縄を代表する英文学者米須興文などが言及している。米須は著書(『文学作品の誕生』、沖縄タイムス社、1998年)の中で「戦場が紛れもなく異文化接触の舞台であることを示している」(6)と述べている。しかしクイア・ポリティックスで映画を読み解き、ホモソーシャルな占領施策・装置に組み込まれた事例として秀逸にマーロン・ブランドや占領者たちの関係から斬新な批評を展開する新城にしろ、巧妙にふせている点がある。ジュリ(尾類)の存在である。映画で京マチ子が演じる芸者とは、戦前辻遊郭で芸や料理を含め多様な慰安を切り売りした女性たちのことだった。もちろんジュリの中にはチミジュリ「妾」として一生を一人の男性と添い遂げた女性たちもいる。その「芸者」ではなく「ジュリ」と呼ばれた女性の存在が際立っていること、ジュリの背後にある沖縄の文化とアイデンティティーこそがこの作品の中軸にあることが、背後に押しやられている。いかにも自文化を秘匿するように向き合わない男性批評家たちの姿勢は、沖縄文化のコアを目隠ししていると筆者は考える。

 【終戦直後の沖縄と上原栄子】

 1945年、沖縄戦開始と共に軍政府要員としてバーン・スナイダーは沖縄に上陸し、沖縄本島中部桃原地区の施政官として、約半年間戦争で疲弊した沖縄のカオスと復興を眼にしている。彼自身が復興を担った当事者だったのだ。実際5000人もの戦争難民を収容していたのが桃原村の実態である。半年という短い沖縄滞在中、スナイダーが最も興味、関心を持った対象が実は、美しい辻遊郭出身の元ジュリ上原栄子だったということは、小説が直喩している。よほどスナイダーの原体験として大きなインパクトだったのであろう。当事者の上原も「私は軍政府の総務部にいましたが、スナイダーさんは教育部にいたんです。そんなに親しい間柄でもないのに、私に興味を持ったらしくいつの間にかモデルにされてしまって」と宮城信行(元沖縄HNKプロデューサー)との対談(琉球新報「全面広告」1990年8月15日)で証言している。

 小説を読むと、上原栄子が著書『辻の華―戦後篇上下』(時事出版社、1989年)でライフヒストリーとして記憶を掘り起こして書いた戦場の体験、その後の彼女の辻再興にかける夢と実際の行動が、影のようにスナイダーの小説に取り入れられていることが分かる。識名の壕に隠した物資を取りにいく場面や、例えば上原が辻の女姉妹と戦後沖縄にいち早く東恩納に「沖縄文化財陳列館」を設置したかの名高いハンナ博士(少佐)の元で何を訴えたかが、彼女の自著からうかがえる。彼女は日系二世通訳を介して米軍接待所を要求している。そこで彼女は懸命に説明するのである。つまり女性だけで経営する異風な辻遊郭の楼主は、貸座敷経営業という鑑礼をもち、そこに働く姐たちは皆日本政府から出される芸妓や娼妓の営業許可をそれぞれ持っていること、遊郭は女だけの集まりであって女らしく、穏やかに弾く蛇皮線の音も歌声も殿方の心を慰め、喜びを与える大きな役割を果たしている。料亭であり、宴会場でもある辻遊郭を作ることは沖縄のためであると、上原は必死で訴えている。それに対する通訳やハンナ少佐の対応の様子も上原は書きとめている。

 「日系二世は通訳にしろどもどろ、東洋流人身売買の遊郭風習は何としても彼らには理解できず、その上日本内地の遊郭再営業は宿敵なのです。罪悪であると言われても、遊女自身に客の選択権があった自分たちにはその実感が湧かないのです」(7)と、率直に感想を述べている上原だが、しかし米軍人は上原らの話を聞いて日本の芸者(舞踊や音曲・鳴物で宴席に侍って芸を披露し客をもてなす女性、旦那を持つ者が多かった)に類似する役割だと理解したようである。彼らに芸者とジュリの違いを深く認識することは難しかったらしく、スナイダーの小説の中でも戯曲の中でも、ロータス・ブローサムはジュリではなく芸者と表示されている。

 ただ小説の中には二人の元ジュリが登場する。ロータス・ブローサムと一の花である。そしてその二人の中に日本や沖縄文化のお茶、お花、舞踊、歌三線の美をしっかり見据えているスナイダーである。一環して小説の中で際立っている芸者(実はジュリ)の立ち振る舞いは、スナイダーが占領政策のマニュアルの中にも記述されていなかった思いがけない沖縄の歴史・文化の残滓としての美しい女性たちに、不思議な感動を覚えたのであろうことが推察できる。

 【なぜスナイダーはジュリに関心を持ったのか?】

 辻文化とジュリが表象するものへの奇異な関心とセクシュアリティの点で、上原やその姉妹たちのかもす独特な美やムードは自然に耳目を集めたと言えるのだろう。またアメリカ沖縄軍司令部は、戦争で疲れ果てた難民たちの精神の回復と復興戦略として、戦争慰安の中軸に沖縄芸能をいち早く投入している。また上原が証言しているように辻で培った彼女たちの芸は重宝され、収容所内でも辻の姉妹たちと琉球芸能を披露している。その他、例えば、45年8月に米軍政府は、石川市に後の琉球政府の母胎となる復興のための諮詢委員会を設立し、同じく8月に生き残った戦前の芸能人を寄せ集め、沖縄芸能連盟を創立している。そして同年12月には戦後初めて石川城前小学校で芸能大会を開催している。

 アメリカの占領政策として沖縄を日本から切り離し、琉球独自の文化や歴史の回復を奨励した方向性が見られる。沖縄方言による教科書の編集さえ念頭にあったようだが、その問題は従来の日本語教育に統一され、『八月十五夜の茶屋』の筋書とは反対に、実際の沖縄では、45年7月30日には石川高等学校が開校されたように学校の復興は著しい。11月には前原高等学校、知念高等学校も開校している。米軍政府の教育部に在籍していたスナイダーがそれらの教育行政と状況に無知であったとは考えられない。しかし彼はあえてペンタゴンスタイルの学校ではなく、茶屋を所望する村人たちを辻の元ジュリ(芸者)たちを中心に、アメリカ占領政策を風刺するコメディータッチの物語にまとめたのである。

 小説は、スナイダー自身の沖縄体験、すなわち異文化体験の妙味が滲み出ている。その幾分過剰に描写された沖縄住民の同じく異文化たるアメリカ軍人・軍属との関わり様も距離を置いて描写したこの作品は、文化と文化の仲立ちをした通訳サキニとフイスヒ゛ー大尉によってアメリカの占領、アメリカ民主主義の政策実践の写実的なスケッチとなっていると同時に、実際の現場で占領軍とネイティブの人間たちとのかかわりの中で見え隠れする調和や齟齬や、誤解などもまた垣間見せる。

 占領する、占領される構図が常に逆転を孕み、文化の交流や融合が同じ人間としての地平にあること、その境界はしかし簡単に理解しあえそうで自国内の共通理解に置いても差異はあり、まして異文化の差異はさらに大きな壁があり、かつ共通項があることが浮かびあがってくる。終戦直後のコードとして米軍人とネイティブ女性との結婚なども法に触れるものだった。(8)ロータスが望んでも、結婚は鞘の外にあったのである。しかし、スナイダーが、辻再興に夢を求めていた異質な美しい上原栄子のエネルギーに魅了されたことが、『八月十五夜の茶屋』を生み出した大きな契機であったことは疑いようがない。上原栄子とバーン・スナイダーのこの奇跡的な出会いがもたらしたものに驚異を覚えるばかりである。

【ジョン・パトリックの脚本とブロードウェイと沖縄】

 今回、舞台脚本(小説の翻案)と、映画のシナリオに違いがないのか、確認のために再度戯曲を読んでみた。大筋では変わりはないが、茶屋での沖縄相撲の場面が、映画では全てカットされている。この日本や沖縄社会の習俗(特異な伝統)が、映画に取り入れられなかったのは残念だが、相撲の場面は沖縄の瑞慶覧劇場では受けたに違いない。また映画がマーロン・ブランドの厚塗りのアジア人メイクのように過剰な装飾に彩られていることは映像ゆえのリアリティーとイメージゆえにいたし方ないとしても、素の形の沖縄の文化が表出しているのはどうやら脚本(舞台)のようだ。

例えば映像に見る実際の芸者芸を披露する京マチ子は美しいが、それは全く沖縄の芸能ではない。日本舞踊の前座的に琉球舞踊が披露されるが、まさに映像の中でサブ日本の沖縄が登場している。京マチ子が沖縄のジュリではない、という事実がすべてを物語っている。しかし、茶屋と芸者あるいはジュリのかもすセクシュアリティは舞台や映像の中でミステリアスなエロスを喚起し続ける。身体(性)を売る娼婦と、芸や歌や三線を性にまつわらせる芸者やジュリの存在がオリエンタリズムのターゲットになっているのは事実だろう。その点、芸者もジュリも同じ藁のぞうりをはいていることになる。

 一方で日本のオリエンタリズムがそこに明らかに美しく表出されていることは、京マチ子が美しければ美しいほど、彼女の芸者踊りが美しいほど、沖縄の文化的アイデンティティーを表象するジュリの芸能ではない、という紛れもない事実に沖縄の舞台観客や映画を見た観衆がそこに違和感や背離を覚えたとして不思議ではない。(9)

ところで、1954年に沖縄で上演された際、「料亭松乃下」の踊り子浜幸子が舞台でロータスを演じかつ古典女踊りを踊っている。彼女はジュリとして舞台に立っている。芸者ではない。小柄な浜幸子の髪型もジュリの髪結いの姿である。またその美声で人気があった地謡の糸数カメも琉髪である。

京マチ子の美貌に勝るとも劣らない上原栄子が同じ56年にニューヨークのブロードウェイの舞台を見て、女優・俳優といっしょに撮影した写真を見ると、主演の女性は芸者でもなく着物を着けたミステリアスなアジア人の美貌である。もはや沖縄のジュリでもなく、日本髪姿の芸者でもなく、抽象化されたイメージの中のオリエンタルビューティーとしてにこやかに写真に納まっている。アメリカ人が求めるたおやかな芸者が、リアリティーから遠いフィクションとして舞台に立ったことがうかがえる。

そう、『八月十五夜の茶屋』はあくまでアメリカ人の演出家や観客の求めた世界だったのだ。1000回を超えるブロードウェイの舞台での成功は、アメリカの異国趣味とマッチし、また何より茶屋と芸者のミステリアスな不可思議な空間は、彼らにとって何より新鮮/新奇だったのかもしれない。映画で流れる日本の「さくら、さくら」の童謡にも驚いたが、もはや沖縄文化の酒肴は泡盛と山羊が表象するのみである。貧しさと明るさと通訳サキニの水先案内のナレーションが、唯一沖縄(人)の色香のように、占領者と被占領者の境界、文化の融合と同化、そして異化は、生きる知恵としてあるようだ。そこでサキニ役のマーロン・ブランドに視線が注がれていくのだろう。

【誤解と理解の間】

『八月十五夜の茶屋』の小説、脚本、そして映画の中でフィスビー大尉が非常にびっくりしていることは、やはりスマタ氏(小説ではモトムラ氏)から生身の人間、芸者のロータスをプレンゼントされたことである。贈物として人間が贈与されるということ、その慣習が、戦時中、辻のジュリや朝鮮人慰安婦を日本軍が連れまわしたり、かの牛島中将が6月23日の最後の自決の日まで美しいジュリを伴い、実際に慰安所を多く設営していた事実とも照合せざるをえない、日本や沖縄の習俗、その文化の奇天烈さが横たわっている。

台詞の中でフィスビー大尉が医者のマクリーンに告白する場面がある。「信じられん様だが、誰かが俺に芸者をくれた。それで俺はこの村に不足しているのをやる事に決めたわけだ。」(10)と、フィズビーは、学校が茶屋に替わった事の成り行きを語る。「全くばかげていると思うかもしれないが」と、付け加えながら----------。

そう言い出すまでのフィスビー大尉は当初、芸者は売春婦と同じだと誤解をしていた。そこを取り持ったのがサキニだが、「アメリカにも芸者商売がありますか」の問いに対してフィスビーは、「ない」と応える。サキニは、ロータスは芸者組合の幹部級と紹介し、「貧しい人は金持ちの気持ちに、金持ちは賢人の気持ちに、悲しい人は幸せな気持ちになりたいです。悩みや憂いのある人は芸者屋に行ってその悩みを打ち明けます。すると芸者はかしこまって聞いて『おやまぁ何と悲しいことでしょう』、と言います、その芸者は綺麗でお茶を入れて歌を歌い踊ります、その時になると悩みは吹き飛んでしまいます。たいしたもんじゃありませんか。大変古風な尊い仕事です」(11)と幾分美化して茶屋と芸者の役割について話す。

フィスビーはその後婦人連盟の面々にも歌・三線、踊りの稽古をつけるために茶屋の建設が必要だという方向に走っていく。戦前、辻のジュリ以外の女性たちが歌、三線、踊りを習うことはご法度だった時代の変化を実はスナイダーはしっかり見届けていたのである。一方パーディ大佐にとってはフィスビーがやっていることは猥褻と酔っ払いの奨励だということになる。全ての試みが潰れて茶屋が壊され、蒸留器が壊されるという、そのせつな事態の逆転劇になるのだが、舞台のロータスとフィスビーの別れの台詞には映画にはないリアリティがある。小説を翻案したジョン・パトリックのセンスが輝く場面だ。

おそらく上原栄子のみならず戦後の占領(復興)期に沖縄の女性たちと米兵との間にかわされたであろう言葉があふれている。ロータスはフィスビーと結婚してアメリカに行きたいと言う。それに対してパトリックが与えた返事はアメリカの現実に踏み込んでいる。アメリカ民主主義を夢見る東洋の女に対して、その幻想を諭している。民主主義はあくまで理想の制度(システム)だとー。そして「セーターを着け、靴を履いてアメリカ人みたいな東洋人みたいな格好をするのは嫌いだ」と。「アメリカ人はいい人だからアメリカ人になりたい」というロータスに対し、「俺の住む小さな町でも彼女をみじめにする人は居るはずだ」(12)と、あくまで理性的に対応する。

文化的差異に敏感であったであろう作家はある面冷めた目で東洋の小国だった琉球の風俗習慣に驚き、感銘を受け、かつその壁を認識していた。しかし、アメリカ人である自国の文化や習慣をロータスに押し付け、彼女を変えることは間違っている。それぞれの文化の多様性を認めたいという、おそらく作家バーン・スナイダーの声をより一層明瞭に台詞に残したのはジョン・パトリックである。シナリオ作家ジョン・パトリックの声(感性)が、フィズビー大尉の声と重なって聞こえてくるようだ。ロータスは結局病気の山羊のような目で彼女を見つめていたセイコーの物になる。二人が結婚する暗示はあるがすぐ隣には戦前の習俗を宿していた沖縄がある。小説を翻案した脚本だが、その構成のパロディータッチの面白さ、終幕のどんでん返しは小説を凌駕している。ジョン・パトリックの才覚ゆえであろう。

一方、小説や脚本やスナイダーのエッセイを丹念に読むと、スナイダーの眼に晒された沖縄、そして琉球の歴史が甦ってくるようだ。日本軍の住民に対する過度な警戒ゆえのスパイ扱いや、自決の強要や差別的対応などの戦後これでもかと記録された残虐な記憶に比べて、終戦初期のアメリカ軍政府の施政に対する沖縄人の「純真な子供のように感謝に満ちた目」(13)は、即スナイダーの眼に映った沖縄人の素顔でもあったのだろう。

【成功や受容と不寛容の理由】

ブロードウェイで成功した理由はいろいろありえるだろうが、『八月十五夜の茶屋』に関する学術的論文は多くはない。53年、54年のブロードウェイ上演の際にはニューヨークタイムズが好意的な劇評を寄せており、その批評がトニー賞や、ピューリッツア賞を授与される大きな契機になったであろう。その後もアメリカで上演され続けている舞台の批評を読むと、超大国アメリカの軍事政策やアメリカ民主主義を世界に押し広げるという意図が、占領された住民により別の形の収束をもたらすという喜劇とユーモアに、ある種の賞賛を送り続けているように見受けられる。その中でRiz Brent(Critical Essay on The Teahouse of the August Moon, in Drama for Student, The Gale Group, 2001)は劇の歴史・文化的文脈を米軍が占領したリアルな沖縄と虚構を対比させながら論じている。同じくJoyce Hart (The Gale Group, 2001)は、異文化どうしの接触による相互的変容の観点から、50年代よりまさに多文化主義やグローバリズムが台頭する現在こそ、この作品は意義深いと指摘する。一方David Kelly(The Gale Group,2001)は現在の観客が作品から学ぶところはどこかと問い、一つの文化による他文化の支配、人種、ジェンダー、アルコールの推進など、現在否定されるべき要因が提示されていると指摘する。これらのアメリカで発表された論考を読むと、ある面、沖縄や日本、アジアの文化習慣が表面的に受け止められている点も散見できるが、ポストコローニアルな占領者と被占領者の関係の綾が、これらの批評からもうかがえる。

では日本の論述はどうだろう?『蝶々夫人』や映画『サヨナラ』、昨今の『SAYURI』も含めてオリエンタリズムの視点は同じだと、つまり占領軍にとって日本は芸者だという批評が西洋のアジアへの眼差しの一環として捉えられている論もある。

 ところで、アメリカでの研究の動向が、作品の原典・コンテキストの掘り下げに向かいつつあることは、沖縄文学全集の英語翻訳版Southern Exposure: Modern Japanese Literature from Okinawa (University of Hawaii Press, 2000)や芸者についての著書の紹介などに見ることができる。

 さて日本や沖縄における評価や舞台や映画の成功・不成功に関して、例えば57年時点で三島由紀夫が「この映画はエキゾティシズムにのっかって、わざとドタバタ調を駆使している」(14)と評し、「マーロン・ブランドに味があり、京マチ子はハリウッドに日の丸をあげた」と絶賛である。しかし先に紹介したように沖縄での受け止め方は曖昧である。いずれにも捉えられるのが現況での声である。その詳細はもっと詰められるべき課題であろう。

 54年に瑞慶覧劇場で舞台を見た大城立裕は「沖縄人が民主主義をはき違えることは、確かにある。音楽癖もたしかだ。しかし、学校建築を犠牲にするということは、解しかねる、―――風刺は侮辱である。もっと客観的な観照が、作者に要求される」(15)と脚本、原作へ抗議している。対して当の上原栄子は著書の中で舞台公演に協力したいきさつを語り、「この劇は、沖縄を侮辱したものではなく、むしろ作者はアメリカの行政が悪いとほのめかしている」と米軍側が反論した旨を記録している。舞台に出演した当時の名優のお一人宮城能造が、「沖縄の芝居人にはよい勉強になった」と話したというエピソードも紹介している。(16)

瑞慶覧劇場などでは15回も上演され多くの軍人軍属が歓迎したという。沖縄で発行された当時の英字新聞は、演劇関連記事や舞台写真を大きく取り上げている。たぶんに米軍ライカム司令部も関わってのことだろうが、舞台公演の収益や献金5,000ドルで新しい学校を建設することも、嬉しい話題だと、新聞は記している。皮肉だが当時の米政府の善意がうかがえる。実際、52年に開業した料亭「八月十五夜の茶屋(松乃下)」の踊り子浜幸子が琉球舞踊を踊り、糸数カメが素敵な喉を披露した舞台が、ニューヨークのブロードウェイ劇場よりも沖縄の風土と伝統に根ざした舞台だった、ということは、確かだろう。 それに関してはブロードウェイと沖縄の両方の舞台を見た上原の感想に耳を傾けてみよう。「アメリカ娘たちが、日本本土と沖縄の風俗の区別がつこうはずもありません。舞台上の彼女たちの姿は、日本の踊り妓や芸者であり、清楚な琉球髷の姐の感じが少しもないのです。――――しかし遠いニューヨークでのちぐはぐな演出よりも、オグデン将軍管轄のもとに沖縄現地のフォークバクナー劇場でやったお芝居の方が、土地を知っている者には何百倍も素晴らしかった。と夫殿は残念がっています」(17)と上原は率直に記している。

おそらく上原栄子とその夫リチャード・ローズの感想は映画を見た多くの沖縄の観衆の思いとも重なったのではないだろうか。実は、MGMから依頼されて映画の作曲を担当した沖縄宮古島出身の金井喜久子も「沖縄の芸者であるべきロータスが、日本の芸者にすりかへられていた点では私も余り愉快ではなかったし、大分、不満な声が沖縄人の間にあった様です」(18)と、エッセイに書いている。沖縄の芸能を微塵も身体で表現することのない京マチ子の美しさは、遠くかけ離れたものだった。それは決して沖縄女の身体でも芸能でもなかった。

【注】

(1) この論稿は2006年度日本演劇学会全国大会(6月24-25日、成城大学)で発表した。しかし筆者は「八月十五夜の茶屋」を小説、戯曲(舞台)、そし映像の面から多面的に検証している途上であり、ここで取り上げるのは課題のごく一部である。
(2) 『EDGE』編集長。活字と映像(写真・映画)から沖縄の境界性、エッジとしての沖縄を試みる。『オキナワン・ビート』(ボーダーインク)、映画『夢幻琉球・つるヘンリー』(共同脚本、高嶺剛監督)等。
(3) 『八月十五夜の茶屋』「屈辱」をめぐる論議/占領者の独善を笑う(2003年11月6日、沖縄タイムス)
(4)戦後沖縄の文化的リーダーの一人。「M・G・Mのこの『十五夜の茶屋』は良心的な素晴らしい映画表現である」(1957年3月28日 琉球新報)
(5)仲里効『八月十五夜の茶屋』( 2003年11月6日、沖縄タイムス)
(6) 米須、p.348
(7) 『辻の華』戦後篇上、pp.114-116
(8) 米兵と日本女性の結婚禁止令が解除されるのは昭和25(1950)年である。
(9) 例えば山里将人は、「ミヤラビ(美童)の中で京マチ子の美しい芸者(ウチナーンチュではない)は、浮き上がって異様に見えた」と、著書『アンヤタサ!―沖縄戦後の映画1945~1955』(2001年 ニライ社 p.182)で感想を記している。
(10)John Patrick, THE TEAHOUSE OF THE AUGUST MOON (G.P. Putnam’s Sons, New York 1952) p.167
(11) John Patrick, pp.93-94
(12) John Patrick, pp.165-169
(13)『月見亭』沖縄公演パンフ、1954年、p.7
(14)『三島由紀夫』全集29巻、2003年、新潮社、p.483
(15)『 琉球新報』 (1954年4月29日・30日)
(16)『辻の華』戦後篇下 p.137
(17)同上pp.164-165
(18)『今日の琉球』(第3巻第1号、1959年、pp.1-2)
【この論稿は文部科学省科研研究報告書「世界の中の『沖縄演劇』ー女優の表象を中心に」(平成18-平成19年)の一部として提出されたものである。】

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