
(パナマ帽を編む少女たちはよく近代を語るとき登場する。彼女たちが沖縄芝居をまた贔屓にしたと紹介されるのである。)
この写真の女性たちの琉球衣装や琉球髪の姿は、また多くの事を語りかけてくるようだ。髪油は椿油だったのだろうか?衣装の似たようなデザインは当時の流行だったのだろうか?茣蓙、壁、ハサミ、パナマ帽の材料、内職のような手作業、寡黙さ、彼女たちはメイクはしていたのだろうか?などなどいろいろ疑問が浮かんでくる。パナマ帽産業は明治・大正の沖縄にとってどんな位置づけだったのだろうか?
↓ 下は村踊りの光景である。日の丸デザインの扇、どうも念仏踊りの扮装である。しかもはだしである。二才踊りのような写真もあるね!明治時代から昭和初期にかけて、ありし日の写真を見ると、近代沖縄の貧しさが直裁に目に入ってくる。貧しさが溢れる昔の沖縄の姿、はまぎれもない歴史の痕跡、その前で溜息をつく。現在に続く日本に包摂された沖縄の貧しさ≪厳しさ≫がある。豊かになったもの、消えたもの、時代の推移の中で消えずに残り続ける物の正体、は何?