goo blog サービス終了のお知らせ 

志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

フェミニズムの視点から見ると組踊も沖縄芝居も男たちが描いたPhallocentricなものだった!?

2010-12-08 01:11:19 | 表象文化/表象文化研究会
女性の表象をテーマにしてジェンダーやSexualityやフェミニズムの論を読んでいると、目からうろこで、今まで何を見ていたのだろう、と曖昧な思念が少しほどけていく中にある。されど今日となった博論コンセプト発表のゼミには十分論を応用して展開はできそうにない。

ジェンダーなどの定義も問題だし、フェミニズムシアターの論者の本を読んで圧倒されてもそれを反芻するのに時間がかかりそうである。ことばを自分のものにするのに時間がかかる気配がして、これではまた空中分解の結末が見え隠れしている。でも徹夜でことばをまとめる作業に今から取りかかる。やっと「なるほど」と思える何かが芽生えそうである。

UCLA教授のSue-Ellen Caseさんに2006年、Globa & Localのテーマの国際学会(ヘルシンキ)の場でお会いした。レズビアンでフェミニズムやクイア理論の権威の彼女は意外にも母性的魅力を湛えていて、日本の女性たちの現象やPerforming Artsの事情にも詳しい様子だった。アジアの学生たちが留学して彼女の大学でまた博論に挑んでいるのである。そうでなくてもLAはアジアに近い。アジア演劇センターもできた(る)予定だと聞いた。アメリカがすでにアジアを庭としていろいろな面で触手を動かしているのは無理もない。21世紀の巨大なマーケットも産業も文化もアジアが主導権を握ろうとしている。もはやアメリカではない。上海の学生たちの学力も世界一とニュースメディアが告げている。しかし、米帝国は最後のあえぎを示しているようにも見える。

世界の力のきしみ、対立の前にこのフェミニズム理論はどうなのだろう?演劇解釈の面でラディカル・フェミニズムのフェミニン生態学的な視点、つまり自然の女性的サイクルに身を寄せた論の展開が面白い。言語学、またフロイドやラカンなどを越えた 
a feminist poitics of theatreの論はとても目を見張らせた。フェミニズム詩学の誕生である。そう!全てが主体である男たちの眼差しによって成り立ってきた表象だったのだ、と認識する時、全ての舞台表象が全く違った形で見えてきた。

組踊も沖縄芝居も戦前まで全て男たちが創った舞台表象だったのである!さてこれからジェンダーの視点で見ると組踊も儒教道徳なり首里王府の封建システムに奉仕するための舞台芸術だった、ということになる。女の声はどこにあるのか?女たちはどう表象されたのか?主体はあくまで男たちである。

大学院(博士後期)のゼミの教授陣は90%男たちである。彼らの男の生態がどう観念・思念の中でロゴスを生み出しているのか?主体である男たちのことばや観念はどう女のことばや観念に肉薄できるのだろうか?フロイド的な心理的色合いの中に埋没している彼らの知性や知識なのか?アジア的属性が彼らの中にどう具現化されているのだろうか?

彼らのSexuality & Genderはどうなのだろうか?一人一人の関係性について興味がわく。Gender & Sexualityと学問研究の対象との関係はどうなのだろうか?その点、例えば折口信夫は自らのSexualityに生涯素直に生きた男だったのかもしれない。身体やSexuality & Genderに偽善なく今、このモメントの命(人生)を生きているのかどうか、常に問われているようだ。それにしても常に新しい論の展開がありこの世は無常。

しかし粉飾は嫌だね。人は己を常によく見せようと七面鳥になりがちになる。七面鳥になるより、モグラがいい!モグラはひたすら土を食べ土を掘っている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。