小橋川ひとみさんは平成15年度のこの尚育王代の芸能復元に演者として関わっていたのですね。それから王府時代の女踊りの研究が深化したことになるのですね。あらためて琉球舞踊研究者の論稿を読ませてもらっています。
国の威信をかけた御冠船踊りの実演があって、戌の御冠船が1838年でその後28年後に寅の御冠船です。28年後なんですが、寅の御冠船も戌の冠船の仕組みをほとんど踏襲していることになるのですが、関心はその間の28年間です。冠船芸能はどう継承されてきたのだろうか?商業演劇でもなく、公の外交芸能ですが、普段にその芸能が御殿や殿内のお座敷で踊ったり唱えたりしたことでしょうね。多分に賑やかに辻、仲島や渡地でも御冠船の芸が戻され何度も繰り返しその界隈で歌われ演じられ、踊られた可能性が十分にありますね。その28年間の気の遠くなるような時間の日常の芸能がどうだったか、興味をもっています。そこに王侯貴族も関わった遊里の存在が浮き上がっていくと考えています。15歳の少年が43歳になります。20歳の地謡が48歳ですね。その間、冠船に登場した芸能者はどうその芸を繰り返し、ほどき、あるいは磨いていったのだろうか?どう次の世代に継承したのだろうか?毎年、若い王府の貴族の息子たちにその芸を仕込んでいったのだろうか?そのへんにお詳しい方からお聞きしたい。芸の継承のあり方である。
裏の座敷芸になる遊里の芸がどのようになされたのか?冠船の芸能者(役人)が指導していったのだと推定できる。そこを今解いているところである。冠船芸能は士族層の芸である、の固定化した考えがある。村の芸能として伝播していった冠船芸能は遊里にも伝播していったのだと十分考えられる。そこをどう実証していくか、問われている。辻や仲島でも御冠船の芸能がもどかれていった。伝播していったのは否定できないのではなかろうか?それをどう実証していくのだ、と厳しいお顔があった。芸はハレの舞台である、と書いたのは池宮正治さん。池宮正治全集が出ている。組踊=トラジィディが修正されていないのは残念。池宮先生の膨大な研究はすごいとあらためてめくってみても感銘を受ける。いまごろ琉歌や琉球舞踊や、古典音楽に目を向けている者としては、また新たに覚醒されるところ多だ。