(琉球新報32015年3月18日)
15日にきさ子さんとジュリ馬の会場であう約束をしていたところ、お母さんのことで行けなくなったので、と彼女は電話口で話していた。それなのに、その後わたしは大学の研究棟にずっとこもっていたのだ。そして告別式さえ知らなかった。朝から図書館には行っても新聞に目を通していなかった。初七日にお別れを告げたい。康忠先生がお元気な頃、旭町のあの道場の二階によく通った。たまに初枝さんが懐かしいおきなわの手料理を作ってくださった。寡黙でご自分からお話をする方ではなかったー。だからもっとお話を伺うべきだったと悔いは残っているが、きさ子さんがこの間お母様から直に多くのことを得ていることを知っていたので、きっと彼女はお母様のことをことばにのこすだろうと期待してやまない。
ちょうど13日に京都の雅恵さんもご一緒にお宅にうかがった。久しぶりに3人でゆんたくできたひと時だった。辻の新思会のいろいろな事柄があって以来、きさ子さんとはどこか風通しが悪くなっていた。私自身苦しいおよそ1年間を過ごして以降は以前のように彼女と話すことは少なくなっていたのも確かで、ときたま、脚本の件で同席を頼まれることはあったが、どこか異なる空気が流れていた昨今である。それが溶けたのが13日だった。いっしょに研究大会を盛り上げた2007年のことが念頭に浮かんでいた。彼女に基調講演をわたしたちは依頼したのだった。あれから8年の年月が流れたのだ。時の経つのは早い。そして美しかった初枝さんが逝かれた。身近な者たちが次々と姿を消していくようなこの「浮世」である。自然の摂理とはいえ、悲しみがやってくる。いずれは誰もが逝かねばならいない道が引かれている。
きさ子さんとこの10年余いっしょに過ごした初枝さんは幸せだったことでしょう。母と娘が語り合ってきた空間からまた立ち上がってくるものがあるにちがいない。哀悼!美しい男役(形)役者だった上間初枝さん、永遠にあなたの美しさ、あなたの凛々しさ、あなたの作品は夢を与え続けます。あなたが乙姫で演じた作品の数々、あなたが踊った琉球舞踊は、近世から近代、そして現代へと女性芸能者の長い歴史のたどり着いた現在の華でもあったのです。