志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

「乙姫劇団と辻文化」 by 真喜志きさ子氏

2016-03-21 03:51:42 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

真喜志きさ子 講演「乙姫劇団と辻文化」プロフィール:沖縄芝居の大御所・真喜志康忠と、乙姫劇団の看板男役スターの上間初枝との間に生れる。小学校に入学するまでの数年間、乙姫劇団の子役として沖縄各地を巡業。琉球大学国文科2年で中退後上京。1980年初頭『ツィゴイネルワイゼン』や『ヒポクラテスたち』などの傑作・野心作の映画出演後、女優を辞める。東京大学仏教青年会「古代信仰研究会」にて竹内健氏に師事。1993年、沖縄タイムスから『琉球天女考』出版。現在、那覇にて琉球信仰史研究所主宰。 

 ただいまご紹介にあずかりました、真喜志きさ子です。本日、私に与えられました講演テーマは、乙姫劇団のことですが、そもそも乙姫とはどういう意味でしょうか。一般的には、昔話に登場する竜宮城のお姫様のことですけれども、学問的に、少し厳密に言いますと、乙姫とは、兄姫(えひめ)に対応する弟姫(おとひめ)のことです。どういうことかと申しますと、『古事記』、『日本書紀』を読みますと、海幸、山幸のエピソードが出てきますが、山幸彦は竜宮に赴き、兄姫の豊玉姫と結ばれます。彼女は子を孕み出産しますが、実はその子を育てるのは豊玉姫ではなく、妹の玉依姫なのでした。この玉依姫を「弟姫」と称しています。つまり乙姫とは妹姫のことであり、神話からすれば、兄姫に仕えるのが、この妹姫なのです。では、乙姫劇団の弟姫にとって、兄姫は誰なのでしょうか。

 この事を念頭に置いて、私の話を聴いて下さい。  実は、私は、8年前にくも膜下出血で倒れまして、8時間にも及ぶ大きな手術をしました。幸いなことに、昨今、神の手ともてはやされております、福島孝徳先生の愛弟子の方が手術をして下さったので、さしたる後遺症もなく、こうして皆様の前に立つことができました。ために、講演の話題があちこちに飛ぶかもしれませんが、そこはぜひご容赦下さい。 さて、術後のリハビリを兼ね、数年前、愛知県の蒲郡温泉に赴きました。その途次、乙姫神社というお社を見つけたのです。私は直ちに、こう思いました。乙姫神社がある以上は、乙姫がいるはずだと。蒲郡の旅行から帰りまして、早速、文献や資料を調べ、私なりの結論が得られました。乙姫神社の乙姫とは、中近世に、蒲郡からほど近い、東海道の赤坂宿の遊女だったのです。つまり、広重の絵でも有名な、東海道の赤坂宿の南二キロほど離れた所にある、乙姫神社を鎮守とする里が遊女たちの本貫でした。因みに三河赤坂の遊女といえば、『今昔物語』などの説話に登場する、国司大江定基とその妾(おもいもの)力寿(りきじゅ)の悲恋が思い出されます。定基は死んでしまった力寿から離れることなく、添い寝をしました。やがて、その死体から湧き出るうじ虫さえも、愛しさのあまり、口で啜ったといいます。 これを儚んだ定基は、のちに出家し、中国の五台山に赴いたというのが、有名な謡曲『石橋』のあらすじです。

 この三河蒲郡の旅行で出会った、乙姫神社と赤坂宿の遊女の取り合わせは、私にすぐさま、故郷、沖縄の乙姫劇団と辻の遊女の結びつきを連想させてくれました。と申しますのは、乙姫劇団は、戦前まで、那覇にありました辻遊郭の尾類(ジュリ)、つまり遊女たちをその母胎として結成されたからです。この乙姫劇団は、世間一般の劇団や演劇集団とは、その成り立ちが、根本的に異なるということを、まずは確認しておきたいと思います。乙姫劇団のユニークさは、その母胎がジュリであったことだと、私は考えています。そこで辻遊郭について、かいつまんで説明しましょう。  那覇の波上宮の近くに戦前まであった辻遊郭は、琉球王府時代から昭和19年、戦火によって壊滅するまでの約三百年間、存続した由緒ある遊郭でした。那覇にはそのほかにも二ヶ所の遊郭(仲島・渡地)がありましたが、辻は冊封使(明国の使者)や薩摩の役人、外来の貿易商人等をもてなすという、迎賓の役割を担っておりました。従って、外国使節団を接待した、奈良、平安時代の鴻臚館(こうろかん)に近かったと思われます。その辺の事情を伝える資料は甚だ乏しく、大正年間の記録に僅かに見てとれます。たとえば、東洋音楽研究の第一人者たる田辺尚雄は、その著書『第一音楽紀行』に、大正12年、辻遊郭の「梅の屋」(楼名)で催された「琉球音楽舞踊会」に参加して、ジュリが、琉球音楽の大半を取り扱う役割を果たしていることに驚愕した、という感想を述べています。

 更に辻で接待を受けた民俗学者の柳田国男や折口信夫も、所謂、遊女という通念とは異質なジュリに、大いに関心を持ち、のちに『尾類考』(柳田)や『女の香炉』(折口)などの論文をものにしてます。 因みに、昭和の初め頃、年に一度、「辻芝居」または「ジュリ芝居」と称して、選りすぐりのジュリ達を集めて、当時一流の役者の演出で、芝居を上演する習わしがありました。その頃の沖縄芝居は男優だけの世界ですから、「辻芝居」は、いかにジュリが格別な存在だったかを物語る催しだったといえましょう。当然ながら、戦前まで、一般家庭の婦女子が琉球舞踊を習うことはできませんでした。堂々と習えるのは、辻のジュリか、はたまた一人前の芸妓になるべく養育されている少女に限られていました。近世のわが国でも、三味線や琵琶の学習は、限られた当道集団のみに許されたものでした。 

 このような状況で、戦後間もなく、乙姫劇団が結成されたということは、とりもなおさず、劇団員が辻のジュリということになります。この集団は、発足当時(1945年)には、舞踊団の形をとりまして、沖縄各地の米軍キャンプ地や、捕虜収容所を慰問。琉球舞踊を披露して、拍手喝采を浴び、瞬く間に人気者になり、やがて劇団結成に至ります。 ここで、その舞踊団を主宰した上間郁子について語ることにしましょう。彼女は、7才の時に、辻に身売りされました。大正の初め頃の事です。その日から、お客様をもてなすために、三味線や唄の稽古を始め、琉球舞踊を身につけながら成長していくことになります。なんでも15~16才くらいには、辻でも踊りの名手としてもてはやされるようになりまして、各村々から依頼があれば、そこに赴き、琉球舞踊を披露しました。また「辻芝居」にも選ばれて、かつて冊封使を歓待のために、首里城内で演じられた「組踊」の演技様式を学ぶ機会も与えられたようです。

 そのような華々しい経歴を持つ上間郁子の下に集まったのは、かつての辻のジュリ達でした。その中にまだ一人前のジュリではありませんが、のちに劇団の看板スターになる17才の間(はざま)好子と15才の上間初枝を含む四人の娘たちがいました。このうら若き娘たちを率いて、艶やかに上間郁子が踊り、熟練の姐さん達は唄・三味線・太鼓と、裏方を務めます。せいぜい10人足らずの小さな舞踊団でした。この舞踊団結成にあたって、郁子団長は三つのタブーを不文律としました。一つ「家庭を作るな」、二つ「男を作るな」、三つ「子供を作るな」。この厳しすぎる三戒律の真の意味は、後で詳しく説明しますが、いまは、神に仕える巫女の条件とだけ言っておきます。かくして徐々に人気を博した舞踊団は、結成から4年後の1949年、芝居もする乙姫劇団として再出発することになりました。その時には劇団員も20名くらいに増えていました。

 舞踊団の噂を聞きつけて、かつての辻の仲間も次々と集まってきたのです。一方、舞踊団発足時のメンバーの中で、30歳前後の姐さん達は、婚期を逃(のが)すことを恐れたのか、さっさとやめてしまったようです。さて、ジュリを主体として構成されていた劇団も、一年後には、熱狂したファンが入団を希望してくる有様。中には、全くの素人もおり、既に他の劇団で活躍している女優も加わることになります。ところが、首脳陣だけはやはりジュリで固めていました。因みに上間郁子が劇団を結成した時は43才でしたが、副団長・三味線伴奏者・会計係とういう、劇団を運営していくための重要な役割は、同年代の姐さん方に任せていました。郁子団長はどうやら劇団の経営の仕方も辻遊郭から取り入れたようです。

 この遊郭は江戸の吉原や京都の島原、大阪の新町などとは全く違います。それらの遊郭は男が支配し男が経営する世界ですが、辻は女が支配し、管理・経営する世界でした。つまり、辻の各楼は2~5人くらいの芸妓を抱えた抱親(アンマー)と呼ばれる女達によって、営まれていました。そのアンマー達から選ばれた長老が、盛前(ムイメー)と称され、辻全体の運営に当たったのです。彼女が取り仕切って行う、祭事に根ざした組織と制度は、遊郭というより寧ろ、信仰集団に近いような気がします(平安時代の最も有名な播麿の室ノ津の遊里でも、そこの管理は女長者に委ねられていました)。そのような認識があったからこそ、郁子団長は、踊り子たちに、巫女としての厳しい条件を突きつけたのかもしれません。

 ともあれ、劇団の経営にあたって、管理運営に男を全く介入させないという辻方式を用いたのでした。 7才から辻で育った郁子団長にとって、乙姫劇団とは、戦火で消失した辻文化の復活だったのでしょう。辻で生まれた間好子と7才で身売りされて辻で育った上間初枝が、共に男役スターとしての資質に恵まれている事も、心強いことでした(郁子団長の胸には、「男舞」といわれた中世の白拍子のイメージがあったのでは)。劇団結成時はテントを張っただけの野外劇場でしたから、芝居終了後、それぞれ女達は、帰宅するという興行形式でした、しかし、次第に劇場に住み込んで芝居をするという形態に変わっていきます。

 その頃、沖縄には十指に余る劇団が、同じような形態で、各地を転々としながら興行していましたが、その中でも、乙姫劇団は次第に人気を博していきました。それは組踊から派生した唄や踊りをとり込んだ歌劇を主に上演したからでした。 そもそも、沖縄芝居が、商業演劇としてスタートしたのは、明治15年頃とされています。廃藩置県後、首里の侍が、宮廷芸能ともいうべき「組踊」を、木戸銭をとって観客に見せたのが、その発端でした。戦前までは、芝居といえば、専ら、男女の恋愛を描く歌劇が主流でした。 それを、戦後、ただ古臭いだけだと決めつけて、他の劇団は敬遠していたのです。然るに、このような状況を逆手にとって、郁子団長は、古典にのっとった歌劇に取り組んだのです。その手助けとなったのが、玉城流家元の玉城盛義師匠でした。彼は、戦前は数多くの名優を輩出した「真楽座」の座長も務めた役者で、当時、辻のジュリ達に舞踊を教えていました。当然、舞踊団結成時の娘達も、舞踊の師と仰ぎ、しかも郁子団長は「辻芝居」で更に濃密な師弟関係にありましたので、「真楽座」で上演された歌劇を伝授してもらったといいます。劇団の人気も日増しに、鰻上りの有様。

 やがて転機を迎えるのは、劇団結成3年後、1952年の事です。それは『中城情話』という「珊瑚座」で上演された歌劇を、乙姫で上演するために、外部の演出者を招いたことでした。そもそも沖縄芝居は口立て芝居と申しまして、脚本がある訳ではありません。つまり、演出者(ないし主役)が、他の役者に、舞台上で、口移しに教えていくのですが、勿論、登場人物全員の台詞だけでなく、唄や踊りを細かく記憶する必要があるのです。そのような演出能力のある役者として、郁子団長が白羽の矢を立てたのは、自ら劇団(ときわ座)を立ち上げたばかりの、30才の真喜志康忠でした。この役者は、昭和の初め頃、由緒ある「珊瑚座」に役者見習いとして入団。往年の名優達に、歌劇の基礎をたたきこまれただけでなく、昭和17年頃には、『中城情話』の主人公を演じて、人気役者の地位を確立していました。

 郁子団長は、そこに目をつけたのです。真喜志康忠の当り役ともいうべき、首里の侍の役を、上間初枝に当て、乙姫の男役トップスターに仕立てあげようと企てたのでした。手取り、足取り、一生懸命、稽古を重ねたのでしょうか。いつのまにか、二人は人目を忍んで逢う仲となり、ついに彼女は身ごもってしまいました。それを知った団長は怒り心頭に発し、折角スターに育てた上間初枝を即刻、破門、追放することになります。年頃の劇団員に示しをつけるためです。なにより、舞踊団結成時の三大タブー中でも、最も禁忌の「子を作るな」を破ったことは許しがたいものでした。泣いて馬謖を斬る思いもあったかもしれません。身重になった上間初枝が向かった先は、故郷の今帰仁ではなく、石川でした。石川には姉のように慕う、かつてのジュリ仲間が住んでいたからです。渡りに舟とはこういうことでしょうか。彼女は戦後、助産婦をしていました。そこに蟄居して翌年、1954年5月22日、一人の女の子を出産しました。 それがこの私、真喜志きさ子でございます。

 自分の出生の秘密をこのようにお話ししますのも、昭和20年代の沖縄芝居の状況を、より理解して頂くために、あえて申し上げている次第です。さて、私が生まれて一年後、母の破門が解けて、乙姫劇団に戻ることになりました。その時、郁子団長は一つの条件を突きつけたといいます。それは乳呑み子を手放すことでした。そこで、母は、幼い私を石川の知人に預けて、劇団に復帰することになります。思えば、京都の祇園の遊里でも、かつては、同じ様なことがありました。客の子を身ごもった場合、古くからの習いとして、近江国、高島郡の産所で出産したといわれています。産後75日して、再び祇園に戻り、産んだ子は、彼女の故郷に養育を委ねたそうです。かくて、郁子団長もそのような方式をとりました。

 こうして私は三才まで、石川で育つことになります。ところが、結局のところ、私は三才と四ヶ月のある日、郁子団長に、乙姫劇団に入ることを許されました。それから、小学校に入学するまでの数年間、大人たちに囲まれた、私の生活が始まります。ここで、幼児の頃の記憶をたぐりよせながら、私の劇団生活の話をしましょう。その当時1957年頃には、劇団員は30名程にふくれあがっていました。

 沖縄本島には20ヶ所ほどの劇場があり、一ヶ所に1週間から2週間逗留します。客の入りが良ければ1ヶ月、悪ければ3日、日用品から芝居道具の一切合切を持ち運びながら、各地を転々とすることになります。私の記憶で印象深いのは、朝の光景でした。朝と申しましても、起床時間はまちまちで、決まっていません。だいたい正午頃に起き出します。まず女達が向かうのは、便所です。普通、楽屋に便所は一つしかなく、従って、30名の列ができることになります。その頃の便所は、汲み取り式のため、中が覗けます。なにしろ独り身の女達が使用するのですから、時には、月の障(さわ)りで、まっ赤なモノがのぞかれます。

 それを初めて見た時、鮮血に驚いた私は、誰かが負傷していると、母に告げました。母は、大人になったらわかるのだと軽く答えます。こうして「血の海」の中で私は育つことになりました。のちに学問の世界に入りまして、『血盆経』という女性のための経典があることを知ります。主として中世の歩き巫女や熊野比丘尼のように全国を行脚する独身の女達が、血の道の地獄を仏に救済されんとして、唱えたお経です。あの幼くして見た血の色は、私のどこかで、歩き巫女の『血盆経』と重なるものがありました。そういえば、東国遠征の帰途、日本武尊の求めに対して、宮簀姫は「襲の裾(おすいのすそ)に月たちにけり」と、やんわり断わることになりました。ここでも、熱田神宮に仕える独身の巫女の象徴が経血であったことがわかります。

 さて、乙姫劇団の食事の有様も思い出されます。劇場は生活の場でもあるので、当然、楽屋に台所があり、土を盛り上げて作られたカマドには、二つの大きな鍋が並んでいます。ひとつはご飯、そして味噌汁。問題は、その味噌汁にありました。全員揃って食事をすることはなく、早い者勝ちの世界です。食卓に着く順番ごとに、味噌汁の具は減っていきます。しまいには、実のない汁(ンナシルー)になります。この汁を、冷えたご飯にかけて食べるのが、母と私の夕餉でした。

 学問の世界に入ってからのことですが、私は年に数回、料理エッセイストの古波蔵保好氏と会食する機会を持ちました。明治の終わり頃に首里に生まれた保好氏は、私からンナシルーの話を聞くや、瞳を輝かせて、「首里の侍も実の無い汁を啜っていた」と話してくれました。なんでも廃藩置県という憂き目を見た首里の士族は、貧しい生活に耐えながらも、誇りは失わないよう、言葉使いや礼儀作法にだけは気をつけたといいます。このため、実の無い汁をンナシルーとは言わず「ハンチンヌウシームン」と呼んだそうです。保好氏との話の中で、図らずも私は、あの侘しいンナシルー時代の夕餉を思い出すことになりました。

 かくて私も4~5歳くらいになりますと、舞台に立つことになります。まずは玉城盛義師匠のもとに舞踊を習いに通うのですが、基礎レッスンよりも、てっとり早く、舞台に立てるように「浜千鳥」や「日傘踊り」などを教えてもらいました。踊りそのものはあまり好きにはなれませんでしたが、舞台に出るのは嫌ではありませんでした。何故なら、舞台で踊っていると、あちらこちらから、ちり紙に包んだお金が飛んで来るからです。つまり、花代です。劇団員と申しましても、給料があるわけではありませんから、この花代だけが収入なのです。

 花代が入った翌日は、嬉しさの余り、大人たちの目を盗んで、こっそり劇場の隣にある食堂に行き、沖縄そばを注文し、それを平らげると、お汁粉も追加。たらふく食べ終わって稼いだばかりのお金を、ポケットから取り出し、支払う時の得意満面。幼いながらも、こうした「自活」のひそかな愉しみがあったことを思い出します。

ところで、この花代という言葉にも、遊女との関連説話があるのです。もちろん学問の世界に入って分かったことですけど。辻と関係があると思うので、お話しします。お客様から貰い受けるお金をなぜ花代というのでしょうか。その由来は、壇の浦、いまの山口県の阿弥陀寺という寺の縁起で語っております。 この寺は、平家の怨霊に耳をもぎ取られるという琵琶法師(耳無法一)の伝説の舞台です。平氏滅亡の時、建礼門院は、幼き安徳天皇をかき抱いて、壇ノ浦に入水し、海の藻屑と消えました。安徳天皇に仕えていた女房達は、その死を悼み、菩提を弔う為、壇ノ浦に留まることになります。そして、里人に教えられるままに、野山で花を摘んでは、それを売り、帝の供養に充てました。かくていつしか、たつきのため、港の男達に身をまかせるようになりました。

 男達や里人は、この女房たちの一途な思いに敬意を表し、お金を渡すときには、花代と称したと伝えています。劇場での生活といえば、寝る場所も問題です。実は舞台で寝るのです。芝居が終わったあと、舞台と客席を仕切る幕を引きます。それから舞台の中央には、一尺ほどの道を作り、足と足とが向かい合うようにゴザを敷きます。冬ならば、敷布団を敷くことになります。そして、蚊帳を吊るします。夏だけではありません。一年中を通じてです。つまり、蚊帳によって、仕切りを作るためです。その蚊帳ごとに、それぞれの自室が出来上がるというわけです。その舞台上の蚊帳の中だけが、母と子の絆を確かめ合う「わが家」だったのです。

 さて、その頃、沖縄を訪れる日本の作家や芸術家は必ず乙姫劇団の芝居を観たあと、楽屋を訪ねる習わしでした。ノーベル賞作家の川端康成氏も、1958年頃、乙姫劇団を観劇したものです。その時のことはよく覚えておりませんが、あれは、小学校入学の前年ですから、1960年のことでしょうか。私は面白い体験をしました。山下清という画家が乙姫劇団にやってきた時のこと。私の傍で化粧を落としている母、上間初枝を見るなり、いきなり、「チョウチョ」と口走り、持っていた色紙に蝶の絵を描いて、私に渡したのです。それは、羽に黒い斑のあるアゲハ蝶のようでした。この山下画伯の蝶の絵を抱えて、翌年、乙姫劇団をあとにすることになります。

 石川に戻って、小学校に入学したのですが、やがて、少しづつ乙姫劇団との関わりは薄らいでいきます。かくて私は、那覇高校から琉球大学国文科へと進学しますが、ひとたび、乙姫たちとの生活を体験した私には、退屈なことが多く、2年で中退し、上京する運びとなります。それは、ヤマトに赴くのにパスポートもドル紙幣も要らなくなった祖国復帰から、2~3年後のことでしょうか。 一方、乙姫劇団は、いつのまにか「巫女集団」としてのジュリの純度が薄れ、それに伴って、集団生活はなしくずしにされ、女優たちは、それぞれ家庭を持ち、年に一度、公演に参加するという形式に変わっていきました。

 つまり、一般的な「劇団」化していきました。ただ、いまや45才になる間好子は、71才の郁子団長と共に、劇団員として、一緒に生活を続けておりました。もちろん、劇団の首脳陣のジュリ達は、相変わらず独身のままです。そんなことをつゆ知らず、大都会にやって来た私は、気の向くまま、芝居や映画の仕事をすることになります。ところが、自分の生い立ちが全く格別なものであることを知るにつけ、やがて、人気稼業を捨て、象牙の塔に踏み入ることになります。27才の頃でしょうか。こうしたことによって、乙姫劇団の背景や基盤を、学問のフィルターを通して考える機会を持った訳です。

 たとえば、あの山下画伯の描いたところの蝶。古代巫女の象徴、それが蝶によって、シンボライズされていることを『おもろさうし』で知ることになったのです。古く沖縄では、蝶をハベル、又はカベルと言い、久高島の最も聖なる岬を、カベルの森と称してきました。これは、イザイホーの巫女を蝶で象徴した、古代シンボリズムにほかなりません。しかも『おもろさうし』では、おなり神をば、アヤハベル、クセハベルも表現してきました。 さて、ここで、この講演の冒頭でお話しした「乙姫」の意味を、改めて考えましょう。先に申した通り、弟姫(妹姫)は、兄姫(姉姫)に対応する表現でした。

 では、劇団の乙姫にとっての兄姫は誰でしょうか。郁子団長が、ジュリに出自した女達の劇団を、乙姫劇団と名づけた理由はどこにあったのでしょうか。おそらく、古代信仰の巫女の形式が、時に、おなり神と同じような姉妹の形をとったからでしょう。たとえば、伊勢神宮の「心御柱(しんのみはしら)」に奉仕する母良・子良。現在でも東北に伝わる契約(けやく)姉妹(実の姉妹以上に堅く一生結ばれた女の累縁)。同じ事は、中国の少数民族、苗族にも見られました。おそらく、このような仮創の「姉妹巫女」を神女とすることによって、古代女王国は成り立っていたと思われます。

 ところで、大和王朝や琉球王朝について、女王と表現されたものが三例あります(3世紀の『魏志倭人伝』、10世紀の『延喜式』、17世紀の『五雑爼』)。女王とは、卑弥呼をいうばかりではなく、平安時代の『延喜式』によれば、斎王(イツキノヒメミコ)もまた、女王であり、明人による『五雑爼』でも、聞得大君は、未婚の巫女の女王として強調されています。辻のジュリ達は、彼女等の祖として、この聞得大君のことを、王女(ウミナイビ)として伝えてきたのです。

 もちろん、辻遊郭は、現在はもう存在しませんが、かつての辻の一角には、未だ、このウミナイビを祭祀する霊場も現存します(私もまた、年に数度その霊場を参詣しております)。辻のジュリが王女から創まるという口碑や伝説は、辻界隈に数多く残っています。学問的には、ジュリの祖としてのある王女を、実在の王妃に比定したのは、あの伊波普猷でした。加えて、廿日正月に、辻で催される「ジュリ馬」祭りは、明らかに、聞得大君とジュリとの関連を示唆する行事だと主張する学者(金城朝永)さえもいます。

 だとすれば、辻遊郭を母胎とする乙姫劇団の女達にとって、兄姫とは、聞得大君と結論づけてもよいでしょう。ここで、15年前、私が現実に体験したエピソードを語りましょう。 ある時、波上宮の向いにある食堂の老婆、小渡カマドさんに出会いました。私がジュリの娘だと知らないにもかかわらず、老婆は、辻がウミナイビによって創められたのだと、熱く語ってくれたのです。(彼女もまた7才の時に辻に売られてきた事を、のちに知ることになります)。彼女は、辻の最大の祭りである「ジュリ馬」が、戦後、すっかり廃れてしまったことを嘆くばかりでした。話の終わりに、突然、立ち上がると、ユイユイ・・・と掛け声も高らかに、私の前で踊って見せてくれたのです。

 その時、私は思いました。かつてジュリであったこの老婆が、今なお、ウミナイビを信じているのなら、私は、終世、その情念の代弁者になりたいと。私にとって、学問とは、このような言挙げせぬ老婆の、嗟嘆の意味を究めるためのものですから。ここで、「ジュリ馬」の意味を説明しましょう。 一言でいえば、この行事は変性祭です。年に一度、辻のジュリが男に成り変わることで、かつて、聞得大君とつながる巫女だったという記憶を回復する祭りだと、私は解釈しています。古来、巫女の霊力が最も発揮される瞬間は、男女の性が変換するモメントだと考えられてきました。たとえば、わが国の主祭神たる天照大神も、時として、男装の姿をとりますし(伊豆・稲取の成就寺本尊)、いくさに赴く神功皇后もまた、男装したと伝えられています。

 さて、ジュリは、春駒という馬首を腰に装着することで、男に成り変わるのです。つまり、春駒とは陽物を意味します。たとえば、神宮皇学館刊『式内社調査報告書』に、新潟県新井市の斐太神社の祭礼の、例として出されており、春駒が陽物として説明されていることからも、明らかです。仏教学では、女が男になり変わることを、「変成男子(へんじょうなんし)」と表現してきましたが、宴席にはべる中世の白拍子は、水干・直垂で男装するばかりか、その舞は「男舞」と称されていました(あたかも、芸能の祖神たる天鈿命が、神々の前で、男振りの舞を披露したように)。そして、このような変性の習俗は、東南アジア全般に見られ、この変性神をば、未来仏としてのマイトレーヤ(弥勒菩薩)に擬すのが通例でした。 従って「ジュリ馬」とは、弥勒祭と言い換えてもいいでしょう。私が言うまでもなく、戦前の沖縄人(ウチナーンチュ)にとって、「ジュリ馬」祭りは、赤田首里殿内の弥勒祭や八重山の豊年祭のように、この変性神たる弥勒を謳歌する祭りと考えられていたのです。

 ハーリーや綱引きと共に那覇の三大祭りのひとつだったのですから。ここで、翻って、わが乙姫劇団の話に戻しましょう。この女性だけで構成された集団は、発足してまもなく、表向きの華やかさから、沖縄の宝塚ともてはやされ、絶大な人気を博しました。おそらく、戦後、乱立した劇団の中で、最も人気を博した、沖縄の劇団だったといえましょう。乙姫劇団は、先に申しました通り、1949年、これまでの舞踊団から劇団として、再出発します。2001年に、二代目団長、間好子の死とともに解散するまでの52年間、上演した演目はおよそ900本余り。中には、『真夏の夜の夢』などのシェークスピア翻案作品も含まれていました。

 かくて、1989年、劇団創設者としての上間郁子団長には、那覇市から功労賞が与えられ、この頃が、劇団として、最も光輝に包まれた時代だったのでしょうか。ただ、そのような乙姫たちの半世紀に亘る芝居作品を、改めて俯瞰する時、この集団を「劇団」と呼んでいいものか、少なくとも、私は、内心、忸怩たるものがあります。なぜなら、古い時代の信仰残澤を多分にとどめたこの集団は、世の一般の劇団概念から、あまりにも逸脱していると思われるからです。「乙姫劇団と辻文化」という題での講演を終わるにあたり、改めて、私の胸に去来するものがあります。

 たとえば、あの上間郁子団長。劇団創設者でありながら、演出家でもなく、役者でもなく、かといって、マネージャーという訳でもない。そのくせ、あの戒律だけは、劇団の掟として、厳しく実行しつづけたのでした。 一方、この私は、故郷から遠く離れた所で、学問の世界を踏み分け、やがて、すでに語りましたような、古代の巫女の条件を知ることになります。

 その条件とは、『万葉集』巻二にある「実の生らぬ樹にこそ神は宿る」ということでした。もしかしたら、私が25年間の学問の生活で得たことを、あの郁子団長は、琉球ジュリの感性によって、とっくに先取りしていたのではありませんか。

 つまり、演劇の霊性は、宗教のそれにつながるものだということを。昨今の私にはそう思えてなりません。終わりに、辻のジュリに対して、格別な思いを寄せた、王朝末期の琉球国王・尚灝(しょうこう)の琉歌で、このつたない講演を終わりたいと思います。  

 恋しあかつらの波に裾ぬらち通ひたる昔、忘れぐれしゃ(歌意:恋しいあかつら浜の 波に裾をぬらしながら、辻に通った昔の事が忘れられない)

御清聴、有難うございました。 

 <「世界の中の演劇ー女性の表象を中心として」(平成18-19)の報告書の一部としてまとめられた講演内容です。>

***************::

科研研究最後のシンポジウムの企画の段階できさ子さんに講演の打診をしていました。彼女は東京で恩師が危篤状態ですぐ返事はできないということでした。こちらとしては11月には大方の目安を立てないといけない状態で年があけてきさ子さんから電話があった時すでに企画が出来上がっていてお断りしたのでした。深夜、外付けHDDからあるデーターを探しているとこの論稿が目に入ってきました。一度ネットでUPしてその後ご本人の意向で表に表示されないようにしていたものです。いまごろ8年もたって目に入ってきたことはこの論稿が読まれたがっているのだと勝手に判断しUPすることにしました。県立図書館の『世界の中の「沖縄」演劇ー女優の表象を中心とした考察ー』の中に入っています。研究代表は鈴木雅恵さんです。共同研究(分担者)としてご一緒に取り組んだプロジェクトです。トヨタ財団からいただいた研究助成は2004年から1年でした。それもテーマは『尾類の沖縄芸能の中での位置づけとその表象の研究ー「沖縄芝居」を中心に』でした。

かれこれ10年以上辻と関わっていることになります。3月19日、真喜志きさ子さんが午後から会場に見えたことはすなおにうれしかったです。わたし自身の辻やジュリ、芸能とのかかわりは真喜志康忠氏とお嬢さんのきさ子さんの影響がかなりあるからです。「辻の女性たちの芸能者としての評価をきちんとしたい」という思いを深めたのもお二人との出会い以降のことです。真喜志康忠氏から沖縄芝居の台本や舞台を通して多様なことを学びました。きさ子さんは辻の御嶽を紹介してくれました。原点に真喜志親娘が関わっているのです。きさこさんは「良かった」と一言話してくれました。会の運営だけで頭が一杯だったのでゆっくり言葉も交わせない状態でしたが、あらためて彼女の批評を拝聴したいと思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。