ぬえの能楽通信blog

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殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その13)

2009-05-03 02:40:48 | 能楽
クセが終わり、ワキに言われた言葉が、この曲のシテにとっては意外なひとことだったと思います。

だって、そもそも前シテが「なうその石の辺へな立ち寄らせ給ひそ。。かく恐ろしき殺生石とも。知ろし召されで御僧達は。求め給へる命かな。そこ立ちのき拾へ。」と、里女に化けてこの場に登場した動機は、殺生石=すでに退治されてもなおこの世に残る自身の根元的な悪心そのものでもあり、最後の牙城でもある石=に近づこうとする、法力を持った僧を戒めた。。というよりは威嚇して追い払おうとしたのであり、それに応えた玄翁がさらに問うのに任せて前シテが語るのは、この殺生石は化け物の魂だ、と言っているわけで、前シテは徹頭徹尾、玄翁を威嚇するためにこれらの文言を重ねていると言えるのです。

ところが、それに対する玄翁の答えは「実にや余りの悪念は。かへつて善心となるべし。然らば衣鉢を授くべし」なのであり、それは悪業を重ねてきた自分さえも救われることができるのだ、という、思いがけない、慈悲の教えだったのです。それだからこそ重ねての玄翁の言葉「同じくは本体を。再び現し給ふべし」に対して「あら恥かしや我が姿」と応えられたのであって、ここで初めて「化生」の者は羞恥心を覚えるに至ったのですね。

地謡「立ち帰り夜になりて。立ち帰り夜になりて。懺悔の姿現さんと。夕闇の夜の空なれど。この夜は明し燈火の。我が影なりと思し召し。恐れ給はで待ち給へと石に隠れ。失せにけりや石に隠れ失せにけり。

常の『殺生石』の場合は、シテは立ち上がりシテ柱に移動してワキに向き、「夕闇の夜の空なれど」と右の方を見上げ、左袖をワキの方へ出して「恐れ給はで待ち給へ」とワキへ決めると、地謡が「石に隠れ。失せにけりや」と突然急速になり、シテは作物の傍らで正面へヒラキ、地謡が「石に隠れ失せにけり」と静かに謡うのにつれて石の作物の後ろに姿を消します。

このたびの「白頭」の小書つきの場合は、「立ち帰り夜になりて」とシテは立ち上がって橋掛りへ行き(このとき囃子方は打切の手を入れます)、一之松にて「懺悔の姿現さんと」とワキへ向き、左袖をワキへ出して決め、「石に隠れ。失せにけりや」と幕ぎわの三之松に行って正面へヒラキ、「石に隠れ失せにけり」と幕の中へ中入します。

シテが後場で本性の「野干」の姿を現すのは「懺悔の姿現さん」ためなのだと、ここで明らかになります。悪鬼はワキの「余りの悪念は。かへつて善心となるべし」という、あまりに逆説的な言葉に感銘を覚え、そうして生涯で(。。ってすでに生身は失われているのですけれども。。)初めて「懺悔」の心を持つにいたったわけです。

言うなれば、この曲のテーマはこの前シテの中入の部分までにすでに尽くされているわけで、耳目を驚かす後シテの派手な型も、すべて「懺悔」のためであり、曲の重要な問題。。「余りの悪念は。かへつて善心となるべし」というワキの言葉を心から信じたシテが、その悪行の子細や、その悪事の応報として自分が命を落とした有様を再現したに過ぎないということになります。舞台上は派手で面白い『殺生石』の後シテの演技ですが、じつは曲のテーマはそこにあるのではなく、『嘆異抄』に見える「善人なほもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」に通じるような(どうもこの言葉は慢心を戒める言葉のようではありますが。。)重いキーワードが積年の悪心をも和らげる力を持つ、というところにあるのだと思います。

こうやって考えると『殺生石』は半能では演じられないですね~。。