ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

あれれ~~??

2009-05-30 01:28:46 | 能楽
。。と書いたばかりの薪能が明日に迫りましたが、好天に恵まれるはずの薪能なのに、天気予報を見るとなんとも心細いかぎり。。なんとか晴れになりますように~~

ところで、この増上寺に出勤するとき、毎年欠かさずに行っていることがあります。それは墓参り。

小鼓・幸流の故・穂高光晴先生のお墓が、この増上寺のすぐそばのお寺にあるのです。浄土宗のお寺でこの立地だから、増上寺に深い関係があるのでしょうね。ぬえはこの増上寺の催しに出勤する前に、毎年1回だけなのですが、先生のお墓にお参りするようにしております。

穂高先生は ぬえがシテ方のいまの師匠に内弟子入門を決めた大学在学中からお世話になり、小鼓を教えて頂きました。能楽師はご存じの通りシテ方・ワキ方・囃子方・狂言方と分業制になっていて、それぞれの役目だけを専業で修行するのですが、ほかのお役が舞台で行っていることを知らないと一つの舞台は勤められませんから、内弟子修行中に必要な知識を身につけるために、ほかのお役の稽古も専門家につけて頂くのです。

シテ方を例にすれば、おワキ方や狂言の稽古はしませんが、お囃子の稽古は必須で、これを習わなければ舞台でお役として、また地謡として声を出すのは不可能です。同じようにお囃子方も書生時代にシテ方の家に通って謡の稽古をしたりしていて、こういった稽古はお互い様なので、しばしば謝礼もなしでお稽古をつけて頂いたりもしますね。

そして、能楽師にとってはそれぞれの専門のお役の稽古がもちろん最優先ですので、このようなほかのお役の稽古は短期間で修了します。教える側も速修授業で、エッセンスだけを教える、ということが多いようです。こういうわけで、シテ方が囃子を習うのは内弟子時代の、そう、ほんの2~3年という感じでしょうか。

ところが ぬえは穂高先生とは妙に気が合ったというか。小鼓が性に合っていたというか。ともあれ ぬえは内弟子から独立してもなお、都合17年間も穂高先生に親炙しておりました。もう最後は習う曲もなくなってきて。。一調もすべて習ったし、番囃子の稽古では『姨捨』『檜垣』『関寺小町』の三老女も、その小書まで稽古して頂きました。それだけではない、先生が保管されていた伝書、あまりにも長い年月 舞台を勤められてきたその上演記録もすべて書写させて頂きました。稽古に伺うたびに、稽古後にも居残って数ページずつ書写した、これだけで10年以上は掛かっているでしょう。でも能楽師としては一代目の新参者の ぬえに、はじめて形のある「財産」を持たせてくださったのが穂高先生でした。

そんな稽古が突然断ち切られて終わってしまったのは、穂高先生が逝去されたためでした。ご家族から急報を聞いて病院に駆けつけて。。ご家族の中で一介の弟子にすぎない ぬえは邪魔者だったかもしれません。。が、先生が鼓を打たれた、その右手に触らせて頂きたいです。。とお願いをして、それはすぐに許されました。ご家族も先生と ぬえとの間柄をよくご存じでしたから。。

その右手を握った瞬間、ぬえは涙を抑えることが出来ませんでした。。「先生。。頂いたご恩は一生忘れません!」と。。それしか言えなかった。ご葬儀も四十九日法要も ぬえはお手伝いに参上し、とくに法要で、同じく穂高先生に薫陶を受けた幸流の小鼓方と二人で『江口』を謡えたことは心に残っています。そのときにご遺族から「ぬえくんの事は先生、ほめていらしたよ。こんなに長く付きあって、今までイヤな思いをした事が一度もない」と伝えられました。。そんな事はないでしょう。。長いお付き合いで何度も先生とは衝突している。。え。。? それが「イヤな思い」ではなかったのかしら??

先生は能楽界の中では異端児というべき人でしたが、一生子どものようなピュアな心を持った方で、そのため不正や不見識、能楽界の因習の負の側面に、ほとんど寛容になることができず、いろいろ損もなさったことだろうと思います。それでも能楽師のほかに学者としても素晴らしい業績を挙げられ、没後に贈られた法政大学の「催花賞」の受賞式(ぬえもご遺族のはからいで特別に招いて頂いた)では、その業績について「前人未踏」と形容されていました。穂高先生は法政大学能楽研究所の創設に尽力され永年所員としても活躍されました。国文学から能の世界に飛び込んだ ぬえでしたから、生前の先生にはいろんな質問を投げかけ、勉強になったことも、先生に長く師事した理由でもありましょう。人間同士としては 時にはぶつかりもし、励まされもし、憐れみもかけられ。。人生の師。まさに先生は ぬえにはそう言える尊敬すべき方でしたし、ぬえの結婚に際しては仲人も穂高先生にお願いしました。

今でも ぬえは催しに出勤する際には穂高先生の遺影にご挨拶をしてから出かけるようにしていますし、強制はしていませんが チビぬえもそれに倣っているようです。それでも ぬえ自身がお墓にお参りするのは年に1回になってしまいました。。

明日の薪能の公演の前にも ぬえは先生のお墓にお参りするつもりです。ぬえを取り巻く情勢や、能楽界もあの頃とはずいぶん変わってきたようにも思います。先生は今の ぬえをどうご覧になっておられるかなあ。。