ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その14…女川町の仮設住宅ふたたび)

2012-10-01 03:03:56 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今年の6月、ぬえたちプロジェクトでは、初めて女川町の仮設住宅にて活動を致しました。町民野球場仮設住宅というところで、とても仮設住宅とは思えない立派な建物が造られて有名になった場所です。

ところが ぬえたちが東京に帰ったその後 ぬえ宛にとっても心のこもったお礼状が住民さんから届けられました。

「先日…お能「羽衣」を拝見いたしました。。「あの大震災を生きて、七十九才の身でこんなに優しく、思いやりのある、能の先生方とお会いでき涙を流して拝見いたしました。ありがとうございました。。「六月二十日お能「羽衣」があると伺いましたので滋賀県の方々のご支援の洋服を着て拝見いたしました。。「一期一会のお心で私達女川の被災者をはげまして下さったのだとなアと涙と共に感動いたしました。ありがとうございました。心の底より御礼を申し上げます。こんなに優しく接して下さいましたのに、何のお返しもできないこと、歯がゆい思いがいたしました。。「この地に小さい乍らもそれぞれの家が建って、健康な生活を営んでいたのかと思いますと、感慨無量でございます。つい涙が流れて参ります。。「これからは女川の若い人々が一生懸命、再建復興へととり組んで前へ前進していると実感できます。」

。。思いも掛けないことでした。たしかに、毎度被災地での能の上演の前後に、これは主に解説担当をしてくださっている笛のTさんが、我々の活動について。。能楽の心と癒やしをお届けする目的で参りました、とお話するのですが、この折にお客さまの住民さんから「ありがとう!」って大声で励ましのお声を頂くことがあります。これは大変ありがたいことで、お言葉としては「お礼」なんでしょうが、ぬえたちにとっては「励まし」なんですよね。とっても勇気を頂ける瞬間です。

また一方。。「ありがとう、と言われたいためだけのボランティアには来て欲しくない」という、これは住民さんの大変厳しい言葉ですが、じつに率直な言葉も耳にしたことがあります。これは ぬえにとって自戒のために心に沁みついている言葉ですね。支援活動がいつの間にか自己満足や自己陶酔に陥った例は。。被災地で見た事がない、と言えばウソになります。

長く支援活動に携わっていると、段々に内容や意味合いが変わってくるもので、ぬえの場合は、むしろ支援のつもりだったのが、当地のやさしい おばあちゃんたちに出会って、いまはあの おばあちゃんたちに会いたくて通っているようなものです。一方、このような住民さんの気持ちもあるのだと判ってからは、慢心しないように神経を遣って、謙虚に活動を続けるようにしております。

ですから、この女川町の おばあちゃんからのお礼状は ぬえにとって意外だったし、心に響きました。このお礼状はこの日活動に携わったプロジェクトメンバー全員に贈られたお言葉でしたから、私信ではありますがお手紙はスキャンして参加メンバーに配って、受け取った側としての気持ちを共有するように致しました。

こうした事から、笛のTさんとは今回の活動の中に女川町の仮設での活動を組み入れられないか、と協議を重ねたのですが、石巻滞在中はタイトなスケジュールなので女川町での活動は不可という結論に至り、この日石巻から80km離れた気仙沼に移動して、その夕方には公演がある、これまた厳しいスケジュールながら、唯一のチャンスとして、気仙沼に移動する道すがら(方角としてはかなり遠回りになってしまうのですが。。)女川町に表敬訪問だけすることに致しました。

おばあちゃんご本人にはお手紙を出して、この日の訪問は伝えましたが、女川町の関係者さんへの連絡は後手に回ってしまって、この日女川に向かいながら連絡を入れて、住民さんと直接会う許可を頂きました。あいにく仮設住宅に常駐するスタッフさんはお休みの日だそうでしたが、また次回の女川町での活動の相談にも乗って頂くことができました。

仮設に到着すると突然の豪雨があって驚きましたが、お礼状の封書を頼りに笛のTさんと一緒にお部屋を探し当ててインターホンを鳴らすと、若い奥様が出られました。めざす おばあちゃんはこの日たまたま仮設内の大テントの下で開かれていた衣料品のバザーにお出かけ中、とのこと。東京から持参したおみやげはこのお嫁さんかな? にお渡しして、すぐ目の前のテントに移動。お嫁さん? からは「今日、あの能楽師のみなさんが見えるんだよ!」と、おばあちゃんはとっても楽しみにしておられた、とのこと。うう~~、もう ぬえは涙腺があぶないんですけど。。

テントの下では、なるほどどこかの団体の活動なんでしょう、支援品の衣料品が破格の安価で提供されていて、会場はにぎわっていました。



ぬえたちは6月の活動のときに一緒に記念撮影に収まった、という おばあちゃんの手紙の中の言葉をたよりに、その写真を見ながら おばあちゃんを物色。(^◇^;) すぐに見つかりまして、こちらから声を掛けて、懐かしい対面が実現しました。

おばあちゃん。。エノキさんとおっしゃる このおばあちゃんから、6月に ぬえたちプロジェクトが活動をした折に ぬえたちがお会いした住民さんのこと、震災のこと、これからのこと。。いろいろなお話を伺いました。また ぬえたちも当地に再訪する計画を立てておりまして、そのお話などに花が咲きました。

とはいえ。。今日は気仙沼まで移動して、しかも上演もある日。お名残は惜しいですけれども、またの再会を約して気仙沼に向かって出発することになりました。

。。このブログも後手に回って、このときからすでに1ヶ月半が過ぎております。。

東京に帰って、ぬえはまたしてもエノキのおばあちゃんからお手紙を受け取りました。。

「旧盆を過ぎますと、東北の八月は朝夕一気に涼しく成ります。。この野球場仮設を北側に下りましたら、道ばたに野性の萩が咲き、虫も鳴いてをりました。」から始まるお手紙には ぬえたちに限らず支援者の方々へのお礼の言葉が書き連ねられ、また6月の ぬえたちの活動についても記されていました。

「能衣裳を着せて頂いた方は。。踊りの方で、。。お伺いして先生方のお言葉お伝えいたしました。。「そしたら、あの時私は泣きました、との事でした。。「美しい顔をほころばせ、うれしかったのです、との事。。「小さい頃よりおどりを習っていつも着物が沢山あって、着てられた、ここであの大津波に会って、ご主人から財産、衣裳まで、何もかも亡くなってしまったのですが、あの日六月二十日ですヨネ。被災後 始めて着物をきました。着せていただいた きものが嬉しくて、嬉しくて それで泣けてきたのだそうです。老婆の私もち、もらい泣きしました。。「その時彼女は 亡夫の分まで生きて、強くなろうと、着物も又着よう と決心なさったそうです。。「このように。。力を与えて下さったのも「能楽の心と癒やしプロジェクト」のお陰です。心のこもった優しさはこんなにも人の心に希望を与え生きる力を与えるのだと云うことが、目の前で体験いたし、あらためて御礼申し上げます。。

ぬえたちの活動。。上演を終えて帰ってから後のことは ほとんど知り得ないので、はじめて感想を聞いたような気がしますが、これは ちょっと誉めすぎかも知れません。。

ともあれ、ぬえは女川町には10月。。今月またお邪魔して活動を行う予定で、すでに現地の受け入れはご承諾を頂き、あれやこれや、作戦を立てているところです。σ(^◇^;)

なんか。。視察は昨年からずっと続けていながら、この6月にはじめて活動を行った女川町なんですが。。なんか、気に掛かる町なんですよね。活動を始めてからは更にまた。。