ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

無色の能…『六浦』(その4)

2016-11-02 01:17:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト

為相の歌「いかにしてこの一本にしぐれけん」にも、ワキの歌「袖の時雨ぞ山に先だつ」にも「時雨」が登場しますが、これは 古人は紅葉というものは時雨によって染められる、と考えていたからで、それも楓の木の下の方の葉から上に向かって順に染まっていくと考えられていました。

能『紅葉狩』に「下紅葉、夜の間の露や染めつらん」と見えるのがその証左の好例です。この場合紅葉を染めるのは時雨でなく露ですが、いずれ湿気が紅葉を染めると考えているわけです。

シテ「げに御不審は御理。前の詠歌に預かりし時。この木心に思ふやう。かゝる東の山里の。人も通はぬ古寺の庭に。われ先立ちて紅葉せずは。いかで妙なる御詠歌にも預かるべき。功成り名遂げて身退くは。これ天の道なりといふ古き言葉を深く信じ。今に紅葉をとゞめつつ。ただ常磐木の如くなり。

前に能『六浦』ではワキがシテの素性を尋ねない、と書きましたが、その場面で書き忘れていたのですが、 ぬえにはちょっと気になる表現がありまして、それはこの場面でも現れるのです。それはシテが言う「今に紅葉をとゞめ」る、という表現なのですが、これは山の木々に先立って色づいた楓が、その故に為相の感動を呼び、自分のために歌を詠んでもらって以来、かえって紅葉することを止めてしまった、という意味。こちらの場面ではそこから一歩踏み込んで、シテは「功成り名遂げては身退くはこれ天の道」という言葉に従って、楓はなお美しい紅葉を誇るのではなく、ほかの木々に譲って自分は紅葉することを止めてしまった、と楓の心をワキに説明しています。

が、ここの「今に紅葉をとゞめ」る、という言葉は、この能を見る観客に「楓が紅葉を止めた」と聞こえるだろうか? という素朴な疑問が ぬえにはあるのです。「とゞめ」る、という語は、単純に考えて「現在に至るまで紅葉の状態でいる」と聞こえるのが普通ではないか、と思えるのですよね。

たしかに古語では「とゞむ」には「止める」という意味合いが強く、「その状態のまま」には「保つ」という語があるわけですが、「止める」には「止む」という語もあり、あえて「中止」を意味するために「とゞむ」を選んだ作者の意図が、もうひとつ ぬえには分からないのです。現代人だからそう思うのかなあ。

こうした いくつかの点から言って、ぬえには『六浦』の作者は、相当に能を作ることに習熟している人なのではないかな、と思えています。能の台本に精通しているからこそ、定型のシテとワキの問答を冗漫と感じて つい省いたのじゃないかしら。

ワキ「これは不思議の御事かな。この木の心をかほどまで。知ろし召したる御身はさて。如何なる人にてましますぞ。
シテ「今は何をかつゝむべき。我はこの木の精なるが。お僧尊くまします故に。只今現れ来りたり。今宵は此処に旅居して。夜もすがら御法を説き給はゞ。重ねて姿を見え申さんと。
地謡「夕べの空も冷ましく。この古寺の庭の面。霧の籬の露深き。千草の花をかき分けて。行方も知らずなりにけり。行方も知らずなりにけり。


こうしてシテは中入するのですが、これまた破格です。ほとんどの能では前シテにある程度の比重を置いて、後シテの登場の必然を演出し、また情趣を深めるために ひとつふたつの地謡が謡う箇所があるものですが、能『六浦』では初めての地謡の活躍場面がこの中入の箇所のみ。それも たった数句で終わりです。まことにあっさりとしていると言うか。。

そのうえ、シテが自分の本性を明かすのに、彼女が現れた理由というのが「お僧尊くまします故に」と、非常にあっさりとしていますね。聖職者だからそれを尊敬して現れたのでしょうか。

。。こう書くと、ぬえは『六浦』の作者が怠慢で、まるで能を作るのに手抜きをしている、また舌足らずで文言を精査したり使う語句を選ぶことに無頓着と言っているように思われるでしょうが、じつは反対で、ぬえはじつは『六浦』の作者は かなり考え抜いてこの能を作っていると感じています。