ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

無色の能…『六浦』(その9)

2016-11-16 22:01:49 | 能楽
シテ「秋の夜の。千夜を一夜に。重ねても。 と上扇 地謡「言葉残りて。鳥や鳴かまし。 と 中左右、打込、ヒラキ

こちらも舞のあとの定型の型です。これは『伊勢物語』の第22段に出てくる歌(小異はあり)ですね。「鳥や」の「や」は通常は疑問形の係助詞として使われますが、ここは推量の助動詞「まし」の補助的な意味で間投助詞的に使われているのでしょう。「鳥が鳴いてしまうだろう」という意味で、全体的な意味は「秋の長い夜を千夜集めてこの一夜にしても、(その美しさは)言葉にはとても尽くせず、時を告げる鶏が鳴いて暁になってしまうだろう」という感じです。

シテ「八声の鳥も。数々に。地謡「八声の鳥も。数々に。鐘も聞ゆる。 と右ウケ面伏せ聞き シテ「明方の空の。 と脇座の方へ向き雲ノ扇 地謡「所は六浦の浦風山風。 とシテ柱へ行き乍扇左手に持ち 吹きしをり吹きしをり とハネ扇にて正先へ出 散るもみぢ葉の。 と右ウケ乍扇折り返しヒラキ 月に照り添ひてからくれなゐの庭の面。 と大小前よりサシて正へ出右ウケヒラキ乍見廻し 明けなば恥かし。 とワキヘ向き下居面伏せ 暇申して。帰る山路に行くかと思へば木の間の月の。 と角から脇座へ行きシテ柱へサシツメ 行くかと思へば木の間の月の。 とカザシ扇 かげろふ姿と。なりにけり。 とヒラキ、右ウケ左袖返しトメ拍子

「八声の鳥」は暁に数を尽くして何度も鳴く鳥、という意味で、やはり鶏のこと。
「吹きしをり」は「吹きなびいて」という程度の意味ですが、「しをる」には植物が萎れる、という意味も含ませてあって、紅葉が散る様子を表しているのだと思います。

この場面、型は本当に忙しいのです。派手な型がわざわざつけられていますね。このあたりは『芭蕉』にも大変よく似ている。。閑寂な世界を描く場面でありながら、型は派手で忙しい。。それはすなわち、バタバタとあわてて舞うことにならず、静寂の雰囲気を持続させて舞うべき、という作者の演者への挑戦と ぬえは捉えています。

さて、この終盤の場面に至って ぬえは思うのですが、ここでは シテは「紅葉した木々の葉」を愛でていますね。「散るもみぢ葉の月に照り添ひて 唐紅の庭の面」。。歌を詠んでもらった栄誉に紅葉を止めてしまった楓の心境の変化は何に基づいているのでしょう。

思うに、これは やはり仏の教えに導かれて成仏の道に赴くシテの心の投影ではないかと思います。考えてみれば藤原為相に歌を詠まれた栄誉はどこまで行っても現世のもので、いま僧の弔いを受けて「草木国土悉皆成仏」の教えを受けたシテには、もっと高次元に目指すものがあるのです。ここに至って、為相によって受けた栄誉を誇りとし、それに執着することなく紅葉を止めた楓は、それがまだ現世への執着の範囲を出ないことに気づいたのではなかろうかと思います。もとより二度と紅葉しなくなった楓の高潔さは、そのまま僧の教えによって、さらに高い世界を目指すことに無理なく移行することができたはずです。

ここからは ぬえの妄想ですが、ここに至って楓は、二度と紅葉することを止めた自分の思いにさえ執着を感じたのではないか、と感じています。つまり。。ぬえはここでシテはほかの楓と同様に、ついに紅葉したのではないかと思っています。それが自然の摂理に逆らわない自然な生き方ですし、現世への執着を捨てる行為でもあるから。。

そうして最後の場面では楓の精は僧に暇を告げて去ります。「帰る山路に行くかと思へば木の間の月のかげろふ姿となりにけり」。。山道に行くかと思って見ていると、その姿は木の間から見え隠れする残月の光の中に薄れて消えてしまった。能の文句はそのように書かれていますけれども、ぬえには、今は紅葉した楓の精が、ほかの多くの紅葉の中に紛れて行く姿が想像されます。

そうして、その姿は月の光の中に薄れてゆく。。どうも彼女の姿は地上からふわっと浮き上がって、木々の梢の中に紛れて行ったようにも読める文章です。うがって考えれば成仏を成し遂げて浄土への道へ飛翔していった、とも捉えられるでしょうが、まあ、そこまで飛躍して考えなくても、現世からさらに高い世界へ導かれてゆく姿、という印象は充分に舞台から感じられると思います。

うん、名曲ですね。最初は「能に習熟した作者があまり力を入れずに作った」と思った ぬえでしたが、シテを中年女性に配する渋さ。。これ、やはり『芭蕉』が念頭にあるのだと感じますが。。が、それを敢えてコンパクトに作り、じつは秋の紅葉もちゃんと愛でている。いわば作者の自然賛歌でもありましょうし、また仏の教えを難解にならずに自然体で受け止めて舞台面に美的に再現した、仏への賛歌の曲でもある、と ぬえは考えています。

今回の上演にあたっては、装束を途中で替えるわけにはいかないけれども、最後の場面で紅葉する楓、そして現世を離れて月の光の中に姿が薄れてゆくイメージを舞台に出せるように少しく工夫も加えてみました。成功すればよいのですが。。