飲み屋の帰り、救急車のけたたましいサイレンの音を聞き、「なくてもいいのに」って言ったところに猛反撃。
「なぜ否定形から入るのか?」「皆が望んでできたものだし、それによって恩恵を受ける人も多い。その時から生き方を変える人だってたくさんいるのに」って。
救急車を全否定するつもりはないけれど、ある意味自業自得で病を招いているんだから、従容と病を受け入れてもいいのでは?それを思わずにあたふたとするって我がままじゃあないですか?という感じかなあ。
恐らく、自らの意識を変えれば、病気の2/3、いやもっと多くの病と決別できるのに、ついつい目先の便利や喜びを享受し、その結果を代償として受けているんだよなあ。
そこに意識が行けば、健康で長生きしてもっと楽しい人生を享受できるんじゃ?結果、救急という社会的コストは大きく削減でき、私たちの明るい未来を拓くことに振り向けて行けるはず、と思っちゃうんですよ。
今日のYahoo!ニュースに「巨大防潮堤で『海が見えない』 防災か日々の暮らしか」という記事がありました。
救急車の話とは若干視点は違うのですが、ひょっとしたら、自分自身が自分の力、人間の持つ潜在的な力を信じていないがゆえに、救急車が日夜走り回り、防災のためのバカでかい防潮堤が建設されるのかもって。
三陸沿岸は過去、何度も津波の被害に遭いながら、その都度、復興してきた。例えば、岩手県鵜住居村(現釜石市)の両石地区は1896(明治29)年の津波で、総人口958人のうち824人が命を落とした。無傷の者はたった8人。それでも地区は昔から続く漁業を支えにして復興した。と。
今、テクノロジーは驚異的な進化を遂げ、ひょっとしたら地震の予知だってかなりの確率で可能になっている。
であれば、テクノロジーの進化は、節度を持って生活の質向上に上手に使えばいい。ただ、、、
下の写真、いかがですか?海岸を目の前にした自分の家の前にこんな堤防ができたら、、、
同様に、サイレンの音を聞きながら、ひとまず、一命を取り留めたのは救急車のお陰、でも、救急車で運ばれることなく元気に生きる術はなかったのか、そんなことを考えてみるのもいいかもしれません。
小窓から、海は見えるんですよ・・・