遠妻の ここにしあらねば 玉桙の 道をた遠み
思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを
み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも
明日行きて 妹に言問ひ 我がために
妹も事なく 妹がため 我も事なく 今も見るごと たぐひてもがも(534)
離れて住んでいる妻は ここにいないし遠いから
思う気持ちも休まらず つらくて泣けるものだから
空行く雲か天高く 飛ぶ鳥にでもなりたいな
明日行き妻と語り合い 妻は私のためにまた
私は愛する妻のため たがいに無事でいようねと
今も夢に見るように 身体を寄せ合いたいものだ
美人の呼び声高かった因幡の八上采女を娶った安貴王でしたが、帝と皇子しか采女を娶る資格のなかったその時代、ことが発覚して八上采女は国元へ帰されました。
安貴王は、帝の孫だったために咎められたのだとか。
何とも切ない出来事を歌った歌が万葉集に収められています。
それにしても、、、そんな時代だったと片づけてしまえばそれで終わりかもしれませんが、状況設定を少し変えると今も変わらないのかもしれませんね。
柿本人麿の悲恋
持統女帝が紀伊國へ行幸した時、柿本人麿は歌詠みでの随行を命じられ同行するのですが、、、
その頃、人麿は隠れて土方娘子という采女を娶っていたんですね。
その土方娘子が人麿に会おうとして遅れて行幸に付き従った。
この時、高位高官にだけ禁令が解かれたのに、人麿は妻に会う事を許されなかった。
その上、高位の男に誘われて、仕方なく付いていく土方娘子の姿を見た(涙)
黒牛潟 潮干の浦を 紅の 玉裳裾引き 行くは誰が妻(1672)
湯羅の崎 潮干にけらし 白神の 磯の浦廻を あへて漕ぐなり(1671)
しかし、人麿には、小舟を漕ぐことしか楽しみはなかった。
ですから、浦廻が恨みにかけてあるんですね。
歌聖と呼ばれ、古事記を作り上げた(?)天才人麿ですが、あらぬ罪をでっち上げられて流罪・幽閉で生涯を終えたとのこと。
行幸での出来事は、人麿の生涯を象徴しているのかもしれません。
豊かな才能を生かすことのできる社会、大きな力によって切ない思いがかき消されない社会でありたいものです。