小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



酒匂川の左岸、小田原市西大友周辺は梨の栽培が盛んで、水田の中に梨畑が点在している。この周辺で梨の栽培が本格的に始まったのは明治の終わりの頃。水稲栽培の農閑期を利用して収入増加が図れる果樹として普及したとのこと。小田原球場前の風景。水田の中に青や黒の防風ネットに囲まれた梨畑が点在している。4月中旬頃の梨畑。防風ネットに囲まれた中に梨棚が作られ、上部は網が掛けられている。鳥よけや雹や強風から花や実を守るために網を掛けるとのこと。梨は桜の花が散る頃に白い花を咲かせる。桜と同じバラ科の植物なので花の形もなんとなく似ている。4月下旬頃に孔雀の羽や梵天を使い人工受粉を行い、5月のGW過ぎには指先ほどの小さな実をつける。先週末、梨畑に立ち寄ったときにはピンポン玉くらいの大きさになっていた。いくつかの畑では袋かけも始まっていた。昨年は袋かけ作業が終わった後に立ち寄ったので実が撮影できなかった。小さな梨の実を撮影した後、かつて当地の梨栽培の拠点があった西大友の盛泰寺を訪れた。明治の終わりに始まった梨栽培は、大正13年に、この盛泰寺門前に事務所を設け足柄梨業組合が発足。当時は80名ほどが栽培に取り組んでいたとのこと。戦争中は減反で作付け面積が半分ほどにさせられたが、戦後復活し足柄梨として名産となった。発足当時の足柄梨業組合は戦後、足柄梨業協同組合として復活したが昭和50年代の後半に解散。記念碑くらいは建っているかと思い訪れてみたが、残念ながら盛泰寺門前に当時を偲ばせるものは残っていなかった。

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開成町のあじさいの里で6月11日から始まった開成あじさい祭りは本日19日で終了となった。祭り期間中は見物客で混雑するので、写真を撮るのにも、落ち着いて散策するのにも適していないように感じるが、普段は閑散としている農道沿いが賑やかになる様子が面白くて毎年祭りの期間に足を運んでいる。 10時前に会場に到着。先週はお昼近くだったのでかなり混雑していたが、今日は時間も早いためかそれほどでもなかった。あじさい農道周辺の紫陽花はどれも満開に近い咲き具合だった。したしみ通りのアナベルも見頃を迎えていた。あと1週間くらいは見頃が続きそうなので、来週はゆっくりと写真でも撮りながら散策したい。あじさい祭りの会場から少し離れたところにある南足柄市千津島のハナアオイ農道に移動。こちらでもハナアオイまつりが行われている。ハナアオイも見頃だった。ハナアオイ農道の北側には岡野あじさいの里があり、農道沿いに紫陽花が植えられている。ここの紫陽花の株は少し小さめだが、見物客が少ないので落ち着いて散策や撮影が出来る。ハナアオイ農道の西側には酔芙蓉農道の入口がある。5月の始めに来たときには切り株だった酔芙蓉も新芽が伸びて青々としている。時季外れの酔芙蓉農道には誰も歩いていなかった。自転車にまたがり田植えの終わった田んぼをのんびりと眺める。祭り会場の賑わいや雑踏から離れると、用水の水音や蛙の鳴き声が良く聞こえる。目の前の田んぼでは白鷺が餌をついばんでいた。来週は静かな田園風景と名残の紫陽花をゆっくりと楽しみたい。

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6月18日、小田原は曇り空の朝。昨晩遅くに降り出した雨もとりあえず止んだようだが、どんよりとした梅雨空が広がっている。10時過ぎに小田原城周辺に散策に出かけた。小田原市本町のハニル館前の枇杷の街路樹。この周辺の国道沿いの街路樹はサルスベリが多く、枇杷の木は珍しい。先週は結構実がなっていたのだが、ほとんど無くなっていた。国道1号を南町方面に歩き、ヤナギヤベーカリーで朝食代わりのパンを買う。数年前に退職した上司が、ヤナギヤのあんぽんが好きで良くおやつに差し入れてくれた。今回、初めてお店で買い物をしたが、あんぱん以外にも惣菜パンや菓子パンもショーケースに並んでいた。藤棚の前から花菖蒲祭りが行われている小田原城東堀へ歩く。遊歩道の両側の紫陽花も綺麗に咲いている。昨夜の雨でしっとりと濡れた紫陽花もこの季節ならではの風景。小田原城東堀の旧水鳥の池側。先週よりも花の数が少なくなったように感じる。小田原城東堀の旧城内小学校側。こちらの花菖蒲はだいぶ開花が進んでいて見頃を迎えつつある。斜面の紫陽花もまもなく満開。見物客で賑わっていた。賑やかな菖蒲園から少し離れ、旧城内小学校の岩石園の石に腰掛けてヤナギヤで買ったあんぱんを食べる。普通のあんぱんと比べると小ぶりのあんぱんだが、薄皮で餡子がたっぷり入っている。数年ぶりに食べたが美味しかった。天気予報によると午後から雨が降るようだ。今日は傘を片手にブラブラ散歩でもしよう。

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砂防ダムらしき場所を地図上で見つけ、小田原市久野の和留沢地区の小さな沢までやって来た。地図ではダムらしきものが5つ記載されており、下から3番目のダムは比較的大きそうである。1つ目の治山ダムを越えて2つ目のダムの下に向かった。大掛沢を遡り下から2番目の治山ダムに到着。大掛沢は年間を通じ水量が少ないようで沢一面に潅木が生い茂り進むのが大変だった。下から2番目の治山ダムの堤体に取り付けられたプレートを見ると、「大掛沢その2」で下の治山ダムと同じだった。おそらく「大掛沢その2」群のダムがいくつかあるようだ。下から2番目の治山ダムを越えて下から3番目のダムに向かう。3番目のダムは地図では1番大きく記載されている。しかしながら潅木が生い茂り堤体が見えない。滅多に人が入らない沢のようで踏跡もなく藪漕ぎしながら進んだ。藪と格闘してやっとのことで下から3番目の治山ダムまで到着。下から3番目のダムは期待していたのだが、下の2つと同じくらいの大きさだった。また地図の記載とは異なり、このダムの周辺は完全に沢水が涸れていた。堤体のプレートによるとここも「大掛沢その2」。下から3番目のダムを越えて下から4番目のダムに到着。相変わらず潅木が生い茂り進むのが大変である。朽ちた枝が所々に積もっていて歩きづらい。その下から4番目の治山ダムの堤体のプレートを見ると「大掛沢」のみの表記。ここから上は「大掛沢」群のダムになるようだ。下から4番目の治山ダムを越えて、下から5番目の治山ダムに到着。地図ではこの5番から上は記載されていないのだが、護岸に足場が作られていて上の沢に行けるようになっていた。この下から5番目の治山ダムの堤体に取り付けられていたプレートも「大掛沢」の表記。下から5番目の治山ダムを越えて、地図には記載の無かった下から6番目の治山ダムに到着。下から6番目の治山ダム周辺は少し水の流れがあった。このダムの護岸にも足場があり上の沢に行けるようになっていた。プレートによるとここの表記も「大掛沢」。農道から沢に下り、大掛沢を遡り治山ダムを6つ越えて下から7番目のダムまで到着した。距離にして300mほどだろうか、ここまで来るのに30分ちかくかかった。このダムの護岸には足場が無いので、恐らくこの上には治山ダムは無いようである。大掛沢には「大掛沢」群のダムが4つ、「大掛沢その2」群のダムが3つの計7つの治山ダムがあった。下から7番の治山ダムの下で古いファンタの缶を見つけた。この大掛沢に治山ダムが作られたのは昭和57年。その当時のものかは分からないが、この場所の時間が止まっているかのような錯覚を感じた。

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入生田の山中で大きな砂防ダムを見て以来、小田原にある他の砂防ダムも見てみたくなり地図や航空写真などを眺めていた。すると久野の和留沢地区にそれらしき表記があるのを発見。地図上では砂防ダムのようなものが5つ連なっており、下から3番目のダムは比較的大きそうである。実際にどのようなダムがあるのか見に出かけた。地図によると和留沢公民館の手前の沢にそのダム群がある。地図だと結構水が溜まっているいるように表記されている。久野川を遡り和留沢地区を目指す。和留沢地区に続く農道の入口には砂防指定地の看板も設置されていた。久野川上流にもいくつか大きな堰堤があるようだ。和留沢地区へと続く農道。写真左側に久野川が流れている。しばらく進むと、久野川に堰堤があるのが見えたので川の近くまで下りる。水量もあり渓流釣りが出来そうな堰堤だった。これから向かうダム群への期待も高まる。坂道を自転車で進むこと30分ほどで和留沢の集落の入口に到着。目指すダム群はここから200mほど上の農道沿いの沢。集落の入口からしばらく進みダム群がある沢の近くに到着。カーブミラーの手前に小さな沢が流れていた。地図では水が溜まっているように表記されていたが、沢はほとんど涸れているような状況だった。茂みの向こうに治山ダムのようなものが見えるので沢に下りてダムの下まで進む。道路脇から沢に下りてダムの下までやってきた。距離にして30mほどだろうか。道路から沢へ下りる場所が枝捨て場のようになっておりひどく苦労して沢まで下りた。堰体に取り付けられたプレートによりこの沢は大掛沢という名称であることが判明。昭和57年に作られた治山ダムでダムの名称は無かったものの「その2」と表記されている。この上のダムが「その1」もしくは「その3」なのだろうか。治山ダム下流の護岸に設置されている足場を伝って堤体の上へ。高さは5mほどだろうか。堤体の上から上流方面を見ると、やはり同じような治山ダムがあった。あの治山ダムの上に比較的大きなダムがあるはずなのだが。<後編に続く>

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