<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

畑のキャベツが虫だらけ

2016年10月07日 18時32分08秒 | Weblog

夕方、畑に出てみた。キャベツが破れ傘、破れ障子になっていた。もう骨だけになっていた。愕然となった。蝶々の産み付けた卵から孵化した青い蛹がうじうじうじうじ這い回っていた。これだけいたら食い尽くすだろう。やつらは食欲旺盛。喰う歯音すら聞こえてきそうだった。慌てて粒剤の殺虫剤を振りまいた。液体じゃないから効き目は遅くなるだろう。虫に食べてもらうために、虫を飼うために植えたようなものだった。原因は野菜に対するこちらの愛情不足である。忘れ忘れに畑に出て行くようじゃ野菜作りは撤退すべきかも知れない。無農薬農業なんてあり得ないのではないかと思った。類推するに、虫も付かないきれいなきれいな野菜がスーパーには売ってあるがこれはどれだけ薬漬けになっていることか分かったもんじゃなさそうだ。

 

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秋祭りと濠干し

2016年10月07日 15時14分05秒 | Weblog

 「秋祭りと濠干し」

 秋祭りが近づいて来た。早朝から農業用溜め池の「濠干し」が始まる。水は数日前から抜き始めてある。濠は山の麓にある。お宮さんを中に挟んで左右にある。「お宮の塘」と呼んでいた。隔年に片方ずつを干し上げる。子供から老人までがこの塘に集まって来る。底の方にわずかに残っている水に大型の魚が背鰭を見せて泳いでいる。これを目掛けてこども等が走り回る。「おれが捕まえたぞ」「おれもだぞ」の歓声が上がる。足も手も背中も顔も泥だらけだ。鯉やら鮒やら鮠やらエビやらがいる。時には鯰や鰻もいる。待ち構えた女衆が料理に掛かる。酒宴が始まる。鯉の洗い、鯉濃、鮒の煮付け、エビの掻き揚げなどが長い膳に列ぶ。餅も搗いてあって牡丹餅になっている。秋野菜料理も添えてある。聚落の面々が顔を揃える。日頃の無沙汰を詫びる。祭りの語源は「間を吊る」ことらしい。
  わたしが幼い頃、ご馳走を食べ終えたこども等は連れだってまた塘に向かった。今度は田螺を探して回るのである。干上がった塘の底の泥に田螺が這った跡がある。これを辿る。花籠が一杯になる。お婆様が味噌や醤油味で佃煮にしてくれた。これが次の日から鬼ごっこのこども等の貴重なお八つになった。

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わたしにはよいことばかりが起こっている

2016年10月07日 14時43分05秒 | Weblog

この頃の僕のセルフ・アファメイションはこうである。まあ自己暗示に近い。

「わたしにはよいことばかりが起こっているなあ」「おお、ワンダフルワンダフル」

そうするとその通りを実感する。なんだかそれもこれもその「いいこと」「よいこと」の変形バージョンに見えて来る。

種も仕掛けもない。そう思えばいいだけの話だから。

思いを先行させているのである。だからその実態があとに付いてきていると言うことになる。思いが本物で実際実態がその影になって身を離れない、というカラクリである。

ちょっとそうでなくても、「あははん、ここを経由して行くんだなあ」「道草していけってことなんだな」「これは僕に余裕が出来てきたからなのかな」などと思う。思うことにしている。そしてしだいに思いが遂げられていく。実現を見ていく。

思考と現実のどちらが本物なのか。どちらも空なのか。どちらも透明体なのかもしれない。

精神界は見えない世界である。形を取らない世界である。それではどうも理解が行き届きにくいから、形を借りて来る。形を借りて目に見えるようにする。判断がそうするとより有利になる。だから物質界は精神界のパートナーのようなものだ。満喫満足するのは精神界である。それをそうだと受理し識別し判断にかけるのは精神界の所為だからである。もちろんパートナーが喜んでいればもう一方だって喜んでいるはずである。

よろこびを先行させるとそうさせようとするものがケリをつけて来る。そしてそこによろこびとする本体が形を現してくるようだ。

わたしにはよいことばかりが起こっている。なぜならそうするように仕向けているからである。これがセルフ・アファメイションの得意技なのかもしれない。それもこれもよろこんですまそうとしているのかもしれない。一種の楽天思想だ。

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ツツジの二度咲き

2016年10月07日 14時40分06秒 | Weblog

  「躑躅の二度咲き」
                   
 植物はみな春に花を咲かせるかというとそうでもない。暑い夏だったり涼風の吹き初めた秋だったり、雪の降る冬だったりする。命の盛りはなぜこうもまちまちなのだろう。
 九月末、庭先にピンク色をした躑躅が狂い咲きした。豪華ではない。寧ろ控え目だ。それでも尚、植物の色香にはっとさせられる。
 春に咲いて秋にも咲くから「二度咲き」とも「帰り咲き」とも呼ばれる。もう咲くことはないだろうとしていたものがもう一度咲く。目出度い。大関の地位を落ちもまた奮起してその地位に戻ってくる力士にはこれを讃えて「帰り咲き」の称号を贈る。でも「狂い咲き」は、咲いてはならないはずの年齢に達しているのに、ひょいと妙な色気が開花した場合、この揶揄表現が当て嵌められる。
 命を持つものは普通は一度咲きである。一度に全エネルギーを傾注する。これが自然だ。 秋は春ではない。冬の準備に当てるべき時である。であれば人生の冬は次の春に向けての準備の時でもある。僕はこの朝、深い老いの海に沈んでいる僕に言い聞かせてみた。
 人の命の盛り、花の時とはいつなのか。この世を生き切った時なのではないか。つまりこの世の卒業式当日に人に静謐で美しい大輪が咲き誇るのではないか。そういう仮定をしてみた。もしそうだったら楽しみが増す

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余命と使命

2016年10月07日 14時37分00秒 | Weblog

「余命と使命」
                 
 秋野菜の種蒔きが老人の僕の唯一の出番である。ここで息を抜く。今のお前の暮らしはどう見たって全部息抜きじゃないかと非難されよう。その通りかも知れない。日長ぐうたらな暮らしをしているのである。社会的責任や義務を果たす仕事は何一つしていない。気が抜けたサイダーのような日常である。でもそれはそれでサイダーに或る種の後ろめたさも感じさせている。最前線に出て勤労している人たちにである。ストレスに近い。
 種を蒔くと発芽する。青葉が秋風に戦ぐ。「あなたのお陰でわたしたちはこの世に出て来れた。嬉しい」畑へ行くと彼らの声が聞こえる。彼らの喜びようを見ていると「大役を果たせた」という気持ちになって、ふううっと大きな息が抜けるのである。おれもまだまだじゃないか。役立っているじゃないかという気になるのである。これで後ろめたさがそのときすっと抜ける。妙なものだ。人相手ではない。野菜相手である。 
 老人は若い人たちに支えられて生きている。これは感謝をすべきだ。だが、気持ちの上では若者を応援しつつ支えてもいるつもりだ。ところが、脱社会している身ではそれが外に現れることは滅多にない。老人は人生の余命を生きているのではない。やはり人間を人間にする使命を生きているのである。何かに貢献をしていたいのである。

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精神は常に少年でありうる

2016年10月07日 14時31分03秒 | Weblog

「精神は常に少年でありうる」
 
 夢と希望に溢れた少年でいよう、いつまでも。そういつまでも。目をくりくり輝かした少年でいよう。星空をそうやって眺めていたじゃないか。僕は老いてサイクリングを覚えた。ゆっくりしか走れない。城原川の川土手を走りながら考える。肉体はもはや少年ではない。その通りだ。肉体は物質だから長年活動していれば消耗する。衰える。でも、精神は物質ではないから、物質の法則に拘束されない。肉体の衰えに逐一リードされていなくてもいい。却って肉体をリードすることだってできる。精神はパワーを充電する。そして高揚する。様々な人生苦難を抜けて来る間に、そういう力をつけてきたはずである。
 秋が来た。萩が大地に零れるようになった。キリンソウも随所に己の黄金を誇示する。僕は自転車で野原へ来る。ここに大岩がある。これに跨がる。そして目を瞑(つむ)る。目を瞑って少年になる。老いた肉体は駆け足が出来ないが精神ならこれができる。広い野原だって自在だ。瞑想が觔斗雲を呼び寄せる。これで孫悟空だ。涼風にゆっくり浮き上がってやがて茜雲までも昇る。
 人は同時に内なる世界と外なる世界を共有している。どちらに重心を置いていたってかまわないのである。肉体は外なる世界の臣下だが、一方の精神は内なる世界の王なのだ。王は日常世界では夢と希望をまばゆく疾駆させる。

 

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情緒はなにより馳走

2016年10月07日 13時03分21秒 | Weblog

空澄んでわれの日長へ百舌鳥が鳴く       釈 応帰

万葉集にある百舌鳥の歌にはこういうのもあった。これは春の風景。春の百舌鳥。

春されば百舌鳥は草潜(も)き見えずとも吾は見遣らむきみが辺(へ)りをば     作者不詳

もうすっかり春になったので、冬の鳥である百舌鳥は高い木の上で鳴かず草に隠れて見えなくなってしまったが、それでもわたしはあなたがいる辺りを覗ってこうして遠く見遣っていますよ。見えていないときでも見ようとしているのです。

この恋歌は情緒たっぷりで、せつないなあ。恋する人の居ない僕では書けないなあ。やっぱりいた方がいいよね。情緒のご馳走にありつける。

これはわたしなりの解釈です。正しくないかも知れません。

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片聞け我が妹

2016年10月07日 12時49分57秒 | Weblog

今日は百舌鳥が囀っている。百舌鳥を詠んだ万葉集の歌を探してきた。

秋の野の尾花が末(うれ)に鳴く百舌鳥の声聞きけむか 片聞け我が妹(せ)  万葉集 作者不詳

秋になって尾花ススキの野原が続く。百舌鳥がここへ渡って来ている。あなたはこの声を聞いただろうか。これはわたしの声だ。どうか我が思う人よ、そちらの方でこの声を聞いて欲しい。わたしのあなたへの思いを受け止めてほしい。

「片聞け」は「片待つ」となっているのもある。「そちらでわたしの帰りを待っている人よ」というように読み取れる。「我が妹」は妻かもしれない。ただの思い人にすぎないのかもしれない。いまだ縁(よすが)もないような。

すぶろうもこの立ち位置だったら相聞歌が書けそうだ。いまだ縁もない人を、そこで想像を巧みにして思慕するのであれば。

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堪忍袋が破れたような百舌鳥の声

2016年10月07日 11時52分54秒 | Weblog

今日は百舌鳥がしきりに鳴いている。モズは百舌鳥とも鵙とも書く。今日はなるほど「鵙日和」だ。「鵙の晴れ」ともいうらしい。大気が澄んでいる秋晴れをそういうらしい。

百舌鳥の声堪忍袋破れたか      一茶

キーッと張り叫ぶ声が堪忍袋が切れた人の声に聞こえたというのか。堪忍袋が切れた人は玄関を走り出て来るだろう。そうして野原を駆け回るだろう、きっと。一茶は穏やかな人物。そんなことはなかっただろう。

 

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百舌鳥が口笛を吹いてわたしを呼んでいる

2016年10月07日 11時45分25秒 | Weblog

百舌鳥が鳴いている。サトウハチロウの「小さい秋」に百舌鳥が出て来る。

♪誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に
かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた♪
 
 
百舌鳥の声は鬼ごっこの鬼の口笛に似ているかなあ。そう言われてみるとそうにも聞こえるなあ。百舌鳥の高鳴きというのがある。これは縄張りの主張らしい。
 
百舌鳥の声はわたしを呼んでいる口笛かなあ。わたしを呼んでどうしようというのかなあ。

 

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