つうじゃないから、大きな声は出せないけど、今年のプロ野球は断然沸かせている。熱い。番狂わせだからだろうねえ。毎年優勝をかっさらっているチームの優勝というのは、どうも新鮮味が乏しくって、ああまたかくらいで終わるけれど、今年はそうじゃない。広島カープが大健闘をしている。強い。強豪を寄せ付けない。ねじ伏せている。お金を持たないチームが潤沢に持っているチームよりも、感動を生み出す力が強い。選手一人一人が意気に感じて活躍を見せている。直向きさが伝わってくる。常勝しているサラブレットが魅せる洗練さに欠けるが、その分の地響きが生々しい。素朴で荒々しい。黒田が戻ってきて火をつけたのかもしれない。その黒田はしかし引退表明をしてしまった。やるだけのことはやったのだから、惜しみない拍手が送られている。完全燃焼はガスが残らない。引き際が見事だ。こうでなくちゃ。チームは念願を果たしたのだ。何十年かの下積みから抜け出してとうとうリーグ優勝をかっさらったのだ。広島市民でなくとも熱くなるよね。スポーツもスポーツ選手も金次第という暗黙のルールが破られたのである。この颯爽とした秋の風に日本中が吹かれているようだ。いやはや、凄いことがおこったもんだ。こりゃぁ事件だ。特上級の。
守宮さんが2匹風呂場の出窓に張り付いている。吸盤がついているのだろう、つるつるの窓ガラスも落ちない。光に吸い寄せられて来た小さな蛾の類を捕まえて食べる。素早い。ものの見事で一撃する。僕はうまいなあうまいなあを連呼する。お腹いっぱいになったのから、舞台を降りて行く。また新入りが登場する。僕は観客を長い間勤めたので、とうとうふやけてしまった。夜の闇の窓明かり、ここはやもりさんのレストランだ。
5時半から6時までだからわずか30分ということになる。この小半時、畑の草取りをした。ブロッコリーの畑の。座椅子に座ってこれを移動させながらじわりじわり。暗くなって座を立った。これですっきりした。気分転換が上手に出来た。急に冷え込んで来た。長袖を着て作業した。冷え込んでいるのに蚊の羽音がうるさかった。小蕪を10株ほど間引きして来た。これを丁寧に洗った。一夜漬けの漬け物にでもしてもらうとしよう。
今日は密教経典「大金剛輪陀羅尼」を取り上げてみます。
これは大金剛輪菩薩に捧げられています。記憶力の増大と罪障の消滅が祈られています。
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のうまく しっちりや ちびきやなん さらば たたぎやたなん
あん びらじびらじ まかしや きやら
ばり さたさた さらていさらてい
たらいたらい びだまに
さんばんじゃに たらまち
しった きりや たらんそわか
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ウイキペデイア百科事典を引くとこうありました。
過去、現在、未来の三世の全ての如来に、全てを投げ打って帰依します。
煩悩の垢を離れたお方よ、煩悩の垢を離れたお方よ
偉大なる法輪を廻す不退転の悟りを得たお方よ
私たちと同じ有情のお方よ 有情のお方よ
悟りの堅固なお方よ 悟りの堅固なお方よ
救済して下さるお方よ 救済して下さるお方よ 消滅させるお方よ
粉砕して下さるお方よ 三慧を成就したお方よ
最も勝れたお方よ スヴァーハー
ナマク シチリヤ ジビキャナン サルバ タタギャナン
アン ビラジ ビラジ マカ シャキャラ
バシリ サタ サタ サラテイ サラテイ
タライ タライ ビダマニ
サンバンジャニ タラマチ
シッタギレイ タラン ソワカ
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有情とは衆生のことです。
三慧とは聞慧と思慧と修慧のことです。
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もう一つ、宮坂宥洪氏の解釈をお借りします。
三世の如来の方々に帰依したてまつるアーン
穢れを離れたお方よ 穢れを離れたお方よ
大の輪の金剛を持するお方よ
思慮深きお方よ 思慮深きお方よ
堅固なるお方よ 堅固なるお方よ
衆生を救済なさるお方よ 衆生を救済されるお方よ
衆生の罪障を消除させるお方よ 完全に消滅させるお方よ
聞慧と思慧と修慧を達成したものの中でも最勝のお方よ
我が願いの成就あれ トラーン スヴァーハー
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陀羅尼ですからもともと意味を掘り下げるものではありません。唱えて唱えて仏界と一つになる三昧の修法のようです。
わたしもときおりいい気持ちで唱えています。いや、唱えていたらいい気持ちになっています。仏さまの世界に足を踏み入れたような清々しさを覚えます。しばらくの間ですけど。
遠くへ行きたいなあ。何処でもよさそう。ぶらぶらぶら。
1週間から10日ほど。10日もすればさみしさが極に達して、引き返して来るだろう。
しかし、ぶらぶらするにもお金がうんと要るなあ。交通費、宿泊費、食費などが。お金が地底から湧いてこないかなあ。天空から降ってこないかなあ。神さまがご褒美をくれないかなあ。でも、褒美をもらうようなことは何にもしていないから、この当てはない。
鶏が金の卵を産んでくれるといいが。我が家にはもうその鶏も飼っていない。此処掘れわんわんの犬も小学生時代に飼っていただけで、その後はいない。魔法のランプはどうか。打出の小槌はどうか。みんな童話の世界にあるばかり。
童話の世界は豊かだ。そっちに移り住めばいいのかもしれない。一挙に解決を見るに違いない。
3時のおやつタイムに、珈琲を飲みながら、僕はそんなことを考えていた。老爺の考えることは実に他愛ない。
現実離れしている。現実ではやり繰りできないということが分かっているので、現実離れするしかないのだろう。
遠くへ行きたいなあ。何処へでも。ぶらりぶらり。
自転車を車の後部に積み込んで。途中途中でサイクリングをして。草っ原に来てお弁当を食べて、しばらく寝っ転がって。ハーモニカを吹いて。
千手観世音菩薩の神呪は「おんばざらたらまきりく」。呪文は仏界の言語。これを称えて仏界と交流する。「おんばざらたらまきりく」を称えて千手観世音菩薩をお呼びして仏界の教えをお聞きする。
観音の足元には暗い大きな海があって荒れ狂っている。ここを行く者はわたしである。嵐が襲来して船が翻弄される。この難を守って導いて下さるのがこの千手観世音菩薩である。千本の手はこの観世音菩薩の他にわたしを守り導いてる者の手である。わたしが守られた者導かれている者であることを象徴している。
わたしはわたし一人ではないということを指し示しているのである。わたしはわたしという単体ではない。複合体である。多くの者が支えているのである。だからこの千本の手はすなわち千人の支援者の表徴である。「観世音菩薩までを合わせた全体」がわたしだということを教示しているのだ。
「おんばざらたらまきりく」を称えたから助けが入るというものでもない。称える以前に助けられていなければならない。だから、この神呪は「お陰様で助かりました」「有り難うございました」のお礼言上である。
千本の手はわたしをここに至らしめた先祖の方々の手である。善意である。守る手である。導く手である。助ける手である。この千手観世音菩薩は一人一人の「わたし」の中が住所である。外におられるわけではない。わたしとともにいらっしゃるのである。そうであるのに、「わたしは一人だ」「一人で荒れ狂う海を渡っている」などという間違った見解を抱いていてはならないのである。
「わたしがひとりで生きているのではない」「多くの支持者支援者に支えられて生きている」という自負、わたしの中に千手観世音菩薩がいてくださるという矜持が生まれて来れば、人生を安んじて生きて行けるだろう。
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「観音経秘鍵」なる経典を読経しながら今日はこんなことを思ったことだった。「わたしは単体ではなかった」という認証がわたしをあたたかくした。
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福岡糸島市の雷山の麓にある「雷山千如寺」に木像の千手観世音菩薩がある。像の高さ4・8m。鎌倉時代後期の作。見上げても見上げきれないほど巨大な観音さまである。ここへちょくちょく尋ねて行く。
このブログ「おでいげにおいでおいで」の10月17日(昨日)の閲覧数は1264回、訪問者数は167人だった。そういう記録が残っていた。訪問して下さったみなさんに感謝します。閲覧数がどういうことを表しているかはよく知りません。
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もう何年も書いています。でも主張らしい主張はしていません。主観的すぎていて客観性がありません。独断と偏見の「こじつけ」が多いです。申し訳なく思っています。多分に引き籠もり症がありますので、社会への窓が開かれていません。同じ所、同じ暗がりを、だから、カチンカチンと手斧でもって掘り進めているだけ。炭鉱夫です。暗がりだから、手にした石炭がどんなものだかも見えていません。
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初めて訪ねて来られた方もおられるかもしれません。「おでいげ」は淤泥華と書きます。淤泥は汚泥に等しいようです。淤泥に咲き出すことができる華とは蓮華のことです。蓮の華です。仏教はこの蓮華に象徴されることが多いようです。わたしたちが生きる世では淤泥は煩悩のことです。悪業や業苦のことです。苦しみ悲しみの泥から、清らかな華が咲いてきます。仏教は現実を蔑んでいません。むしろ肯定しています。わたしは一人の仏教徒でありたいと思っています。でも積極性を欠いています。ご安心下さい。人にこれを勧める勇気はありません。
おはようございます、どなた様も。朝が来ています。有り難いことです。朝が来る時間になっても「朝が来ていない」とすれば、わたしは仰天するでしょう、きっと。それが仰天しないですんでいます。有り難いことです。 「隣のうちまでは朝が来ているのに、わたしの家には来ていない」とすればいきなりここが地獄になりますが、そうではありません。わたしの家の庭先にも明るい朝の光です。これでここを地獄としていないのですみます。有り難いことです。光がわたしを輝かして祝福しています。
「それに値する人間なのか、お前は」「それだけの祝福を受けていいだけの生き方をしてきたのか」と自問すると、そこでばったり答えに窮してしまいます。
でも朝はそんな意地悪を言いません。己の善意を針に刺して突きつけたりしていません。なんにも言いません。条件なしです。平等です。博愛主義です。
ですからわたしはこれを、溢れている朝の光を素直にすんなりよろこんでいればいいだけになっています。
百舌鳥が鳴いています。光を受けて石蕗の黄金がますます黄金になっています。天高く馬肥えて、爽やかな涼秋が来ています。
諺「捨てる神あれば拾う神あり」がちょっと気になっていました。「捨てる神」のところに。神さまが困っている人を捨てたりなさるのかなあ、と。そういう神は神さま落第じゃないのか、と。
それとも、困っていない人のところは通り過ぎて、困っている人だけを拾ってくださる、助けてくださる、ということなのかなあ。
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ここに登場しているのは日本古来の八百万の神々たちなのでしょうね。なにしろ800万もいらっしゃいます。だから何処にでもいてくださるのです。ネットで調べたところでは、ここの神は「尊敬に値するもの」「指導者・支配者」といったところのようです。キリスト教的絶対神ではなさそうです。
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英語では、「When one door shuts,another opens 」 「 There is kindoness to be found everywhere」とも言うらしい。分かり易い。ドアが一つ閉まっていてももう一つのドアが開いていれば、その開いたドアから入って行けばいいのですよね。人の親切というのも見ようという目があればどこにも探し出せるのかもしれない。
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これに類する日本の諺にこういうのもありました。
・ 地獄にも鬼ばかりはいない (渡る世間に鬼はなし)
・ 月夜半分 闇夜半分 (月夜も15日 闇夜も15日)
・ 寺の隣に鬼が住む
・ 仏千人 神千人
「仏千人 神千人」とは、仏さまのような人が千人、神さまのような人が千人、ということでしょうか。それだけもいてくださるのなら心強いですよね。「嫌なことがあってもくよくよするな」「仏が助けに来るぞ、神が救いに来るぞ」「必ず希望を繋げ」に聞こえて勇気百倍しますね。
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さてさて、今日を生きることにします。涼秋にふさわしく爽やかに。仏千人を胸に抱いて、神千人を背中におんぶして。それだと、でも、重たすぎるかな。じゃ、お一人ずつにして。
おはようございます、どなた様も。室内気温25度。朝日が射し込んできています。鵯が高い声を発しています。「おい、人間ども起きているか」という喝にも聞こえます。シジミチョウは姫林檎の木にとまってひらひら羽を動かしています。僕は歯を磨いて颯爽としていて、快調です。さっき食事の後の10分、家の中の長い廊下を行き帰りして運動したからです。手には鉄アレイをぶら下げて。ふう。ちょっと汗を掻いています。こうすると運動する手足に血流が集まって、その分、血糖値を抑えてくれるのだそうです。我ながらご苦労様です。