<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしはスーパーマンとしてこの世に生まれて来ている

2016年10月11日 20時10分59秒 | Weblog

摩尼(まに)の宝珠をわたしたちはひとりひとり手の平に握っている。如意宝珠ともいう。如意はこころのままということである。だから分かり易く言うと摩尼とは打出の小槌のようなものである。もともとはサンスクリット語である。神呪である。言葉に魂が投入されているのが神呪である。もっと分かり易く言うと鉄腕アトムのアトムのようなものだ。わたしを動かす道源、道元である。道の元(はじめ)である。これをわたしたちは一人一人握っている。握っているばかりかこれを采配している。意のままに。如意に。だから福も寿も思いのままである。疑わなければ思いのままである。そんなものあるものか。この科学の時代にそんなもの、漫画のようなものがあるものかと疑う。すると摩尼の宝玉が隠れてしまうのである。所在を隠してしまうのである。でも、疑いを解くとまたどこからともなく現れてきて如意するのである。摩尼を疑うな。わたしは摩尼を駆使することのできるスーパーマンとしてこの世に生まれて来ているのである。両手の手の平を開いてもう一度じっくり見て見よう。見ている間に、瞬くの間に、それが浮かび上がって来るであろう。

ただし、利他に限られている。利他とは救済に当たるということである。自利ではない。自分の欲望達成には披見できない。恋人に会いたいからスーパーマンになって急いで飛んで行く。それはかなわないのである。

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仏と感応し道交する

2016年10月11日 19時52分11秒 | Weblog

「感応」というのはわたしを感じてくださるということ、わたしに応えてくださるということです。「道交」は同じ道にて交錯するということ。交じり合うということ。平行線の儘ではなく交じり合って行くということ。誰と誰が? 仏と私が、である。とても一対Ⅰではありえないはずなのに、一対Ⅰで向かい合って。これが成立している。わたしを仏の大きさにされたのでなけらば、これは成立しない。釣り合いが取れない。調和はしない。それを調和せしめられているので、調和があるのだ。わたしと仏が調和を見ているのだ。仏の大きさになさしめられたわたしを、わたしは感じる。感じなければ応対はかなわないのである。そして大きな道を行く。一筋の道を行く。交わる。交錯する。それを思ってわたしは泣ける。わたしを動かしめられる。わたしを歩かしめられる。それができる条件はすべて準備されて、完了しているのでわたしはそうするだけである。そうするだけでいいのである。交わるというのはブッダを思うと言うことである。念じるということである。瞑想するということである。そうすることでわたしは発電所になっている。1000ボルトの電力を発電している。

 

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秋刀魚の竜田揚げ

2016年10月11日 19時38分41秒 | Weblog

秋刀魚の竜田揚げ。これを食べた。ついでに茄子とシシトウが揚げられていた。おいしいおいしい。シシトウがつんと辛い。辛さが刺激的で、舌鼓を打った。で、うまい酒をうまく飲んだ。秋刀魚の竜田揚げ、こんなにうまいものをおれが喰っていいのかというくらいだった。これを喰った。しめしめという顔で喰った。

 

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あなたがわたしにはたらいて来られます

2016年10月11日 19時27分55秒 | Weblog

あなたがわたしにはたらいて来られます。わたしにあなたがはたらいて来られます。かたじけないのです。ブッダよ。わたしはあなたにはたらきかけられるほどのわたしでしょうか。わたしの頭が縦にふれません。しかしまことに一方的にあなたの頭が縦にふれてわたしがまともに肯定されているのを感じます。ブッダよ、ブッダよブッダよ。わたしはあなたに問いかけます。あなたにはたらきかけられるほどのわたしを、わたしはもう捨て鉢にはできないのです。無価値にしてはおけないのです。腹一杯に空気がわたしを満たしています。空気を吸います。空気を吐きます。いつもの通りです。でもこれがとても新鮮なのです。わたしにはたらいているあなたを思うととても新鮮なのです。

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そうせしめられたあなたをよろこんでいます

2016年10月11日 19時19分41秒 | Weblog

ブッダンサラナンガッチャーミ。わたしはブッダに帰依をしております。どう生きても、どう生きることになっても異存はございません。思し召しの通りを生きて満ち足ります。それらはすべてブッダがわたしになさることですから。わたしを導いておられることですから。ブッダンサラナンガッチャーミ。あなたに帰依をしていること、帰依をしておられる己をよろこびといたします。日が暮れました。夕食を頂きました。あなたに生かされているわたしをあなたにお見せいたします。あなたに生かされているわたしはそこに至り着いた尊いわたしをよろこんでいます。それをそうせしめられたあなたをよろこんでいます。

 

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今日を生きた

2016年10月11日 19時06分29秒 | Weblog

今日を生きた。生きられた。生きて、では、どうだったのか。何か特別なことがあったのか。あったら、書いたらいいが、それはない。書くべき特別のことはない。ただ昨日の延長のような今日を生きたような気がする。今日は昨日じゃなかったのに。今日を今日らしく生きるべきだったはずだ。では、そうしたか。今日を今日らしく生きたか、溌剌と生きたか。明るく一歩を弾みだしたくなるように生きたか。しばし沈黙する。

夕方外に出た。トクワカという小葱の球根をほっぽり出したままにしていたら、発芽していた。青い芽を出していた。棄てられてそこにあったのに、彼らはそれを撥ね除けた。棄てられていることに甘んじてはいなかった。裸になったままだったのに、そこから根毛を出して土にしがみついた。そして青い茎を伸ばした。挽回を果たしたのである。それを褒めてあらためてそれをプランターに埋め直してあげた。そして牛糞をたっぷり施肥しておいた。

日が暮れた。何かをしたという充実感が靄のように流れて来た。今日を今日らしく生きたという感じがした。

 

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お礼を言い合う世界

2016年10月11日 17時10分56秒 | Weblog

「お礼を言い合う世界」

 人によいことをした人は、「それをさせてもらった」ということになる。だからさせてもらった人がさせることになった人にお礼を言うことになる。「わたしはあなたのお陰でよいことをさせてもらうことができました」という具合に。
 饅頭を頂く。頂いた者がお礼を言うのが普通だが、饅頭を人に与えたという善を成した者が、その機会を与えてくれた者、つまりもらってくれた者にお礼を言うのである。「これをわたしの益とし福とし徳とします」と。
 ミャンマーではお坊様が食べ物を頂く。信者の人が道に列んで布施という善を成そうとする。お坊様はその善を受ける。これで信者たちは功徳を積むのであるから、信者の方がよろこんでお礼を言うのである。その代わりお坊様はその善を受けて修行という善を積む。仏の教えを授けるという善を施す。
 悪人は己の悪行を見せて人に善を勧めることができる。「悪をまじかに見せ、悪を善に転換する方法」を学ばせることができる。そういう役目をも持っている。これで悪人の悪を己の悪にしないですむのである。悪を引き受けている者があってそこで初めて次の善が立ち上がる、という石積みでもある。
 畢竟、お礼を言い合う世界に生きているのである、そういう眼で見れば。互い互いにそれをそうせしめ、せしめられているのである。そういう成り立ちの場に出ている。おのれ一人で善を行ってはいない。行えない。おのれ一人の悪に終わってもいない。常に他者がいる。悪は善へ進ませるスクリューでもある。働きかけられながら同時に働きかけている因縁世界だから、双方が通行している。
 雲に夕日が射して夕焼けが起きている。射した夕日を受けて雲が赤く染まり、これを安らぎにしている。静かだ。山も海も。

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ハーモニカは楽しかった

2016年10月11日 14時39分33秒 | Weblog

ハーモニカ教室は楽しかった。音譜が読めない僕でもふけるように指導を頂いた。知らなかった。ハーモニカの音符が数字表現とは。ハーモニカの種類がたくさんあることも知らなかった。僕は複音ハーモニカのCコードをふいていることが分かった。インストラクターの方がCMのハーモニカでロシア民謡を奏でてくださった。あまりの巧みさにうっとりした。これだけふけるようになったらいいなあと思った。欲が出てしまった。今月から文化教室に習いにいこうかなどと思った。でも僕は怠け者だからなあ。それもとびっきりの。

 

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出来ないことばっかし

2016年10月11日 08時26分30秒 | Weblog

今日は「男倶楽部Ⅱ」の日。中央公民館主催の。高齢者の男性ばっかり。「男の郷愁 ハーモニカ」と題してある。古いハーモニカを昨日のうちに準備した。わたしは音符が読めない。のに、吹ける。耳にした曲なら。嘘八百に。こんなことになるのなら、小学生の頃にもっと馴染んでおくべきだった。音譜が読めるようにしておくべきだった。とかく「こんなことになるのなら」が多すぎる。不勉強で通して来たことが悔やまれる。冬の星座もまだ見分けが付かない。鳥の鳴き声の区別が付かない。クロールで25mプールを泳げない。日曜大工も出来ない。恋愛も出来ない。できないことばっかし。よくまあこれでこの年を迎えられたもんだ。あきれる。

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青洟(あおばな)を垂れていた時代

2016年10月11日 07時00分27秒 | Weblog

薄曇り。雨が予感される。朝の7時。光が差し込まない。空がぐずついている。室内の気温で21度。ひんやりしている。ねんねこ綿入れがほしいほどだ。

綿入れというと防空壕頭巾を思い出した。ふかふかに綿が詰めてあった。耳まですっぽり蔽うことが出来た。耳がぽかぽかした。もう敵機が襲来して来なくなって防空壕に入らなくてすむのに、これを被った。寒さを凌げたのである。雪の降る日はこれにくるまって登下校した。みなそうしていたから、格別の違和感はなかった。雪投げ合戦をしても、これだと平気だった。女子は紋平履き。男の子は青洟(あおばな)を垂れていた。掻きむしった鼻の下が真っ赤だった。

あの時代、どうして青洟なんて垂れていたのだろう。現代っ子にはついぞ見かけない。寒さが雲泥に違っていたのかも知れない。

 

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