猪汁というものを食べた。初体験だった。柔らかくておいしかった。臭みはまるで感じられなかった。今日は聚落の祭りだった。我が聚落で生け捕りにされた若い猪だったらしい。牛蒡が臭い消しになっていたのかも知れない。お代わりをしたいほどだった。
わたしは癒される。広々とした空に癒される。緑の山に癒される。静かな木々に癒される。風を渡す野原に癒される。鳴く鳥の鳴き声に癒される。草むらの虫にも癒される。
みんながこうしてわたしを癒やしに掛かる。次々にわたしの舞台に登場して来る。わたしは目を瞠(みは)る。そうしているだけでいい。そうしているだけでわたしが癒されている。
「わたしはどうだろう?」空にきいてみると、空は「いえ、あなたこそがわたしたちのヒーラーです」と言う。言ってわたしを真っ直ぐに真っ直ぐに立てて来る。
山に聞いてみる。木々に聞いてみる。野原に聞いてみる。みな口を揃えたようにして同じことを言う。一律に。世界の調和を保つ実行者のように一律に。
「あなたこそがわたしたちのヒーラーです。わたしたちはあなたからどんなにたくさん、どんなに深く癒されているでしょう」と言う。
秋風が流れてくる。涼しくひんやりとしている。深く息を吸う。胸を拡げて大きく深く息を吸う。今日は空に一片の雲もない。
わたしたちはこうして相手を真っ直ぐ立てて、奉って、互を癒やし合って暮らしていたのだということが、頷かれてくる。
悪がないと善が働き出せない。となれば、悪は善のためには有用なのだ。善のハタラキをしていることになる。それは闇と光の関係でもある。光を光として認識させる力を持つものは闇である。善人だけが登場するドラマは存在しない。悪人がいないと感動のドラマにはなれない。
善のために一役買っているのは悪である。悪を待たなければ善は働き出せない。だから善なる者は悪を軽んじることがない。互は互の背景である。驕ることはない。失望することもない。ハタラキ合っているのである。
これで学習をして進化を遂げようとしているのである。向上を図っているのである。だから双子のようなものだ。ツインなのだ。善と悪とで一対なのだ。どんな存在であろうとそれは必ず他者の利になっているのである。
「あなたがやがて仏陀に成って行かれる方である。必ず仏陀に成って行かれる方である。その途中の方である。わたしはだからあなたを軽んじることはありません。手を合わせてあなたを礼拝します。」彼は会う人会う人にこの言葉を掛け、手を合わせ、人間礼拝をして歩かれた。
こうやって常不軽菩薩は一生礼拝という一行を貫かれた。相手を軽んじない、敬う、立てるという行をなさったのである。これが釈迦牟尼世尊の前生譚になっている。この修行をされたので釈尊がご誕生になったという説である。
人は誰もが目的を持って歩いている。幾つもの世界を歩いている。生まれ変わり生まれ変わり、生きて死んで死んで生きて、目的完遂のために歩いている。無目的ではないんだ、わたしたちの命の歩みは。仏陀に成る為なのだ。そこで輝き出す為なのだ。そこで太陽になって全宇宙をさらにさらに明るく輝かす為なのだ。
朝の6時半。ただいまの気温24度。湿度は90%近くもある。虫の声がしている。木に登った苦瓜が小さな黄色い花を着けている。風はない。庭の草木が静かにしている。わたしはこれを見たり聞いたりしている。そうするとそこに互の関係性が出来てくる。ハタラキ合いというものが生じてくる。するとそれが「そこになければならなかった」ということになる。それがそこにあったので、わたしはそれを見聞きすることが出来たのである。わたしはそれを見聞きしてさまざまに思う。こころ安らいだり元気を涌かされたりする。世界は網でできている。網目網目で繋がっている。こうしたハタラキ合いが無限に続いている。わたしの安らぎが波のように四方へ広がっていく。そういうことも有りうることだと思えて来る。わたしは因果の初めの因を起こしているし、わたしに世界中の果がひたひたひたと届いていることにもなる。孤独ではないのだ。個別であってしかも全体なのだ。わたしは世界という網の網目の一つ。そうやって支えられているし支えてもいることになる。
「天の我が材を生むは必ず用有ればなり」
これは李白の詩句だったと思う。天がわたしという人間資材をこの地上に生ましめたのは必ずわたしが有用であったからだ、ここで大切なハタラキをなしていくからだ。高校の頃にこの詩句に出会って激励された。その頃のわたしはノイローゼ気味だった。自己卑下に長けているばかりで、とても社会に役立てる積極性は持ち合わせていなかった。自分がこの世に有用な存在であるとはとても思えなかった。厄介なお荷物に近かった。
あれから幾十年が過ぎた。わたしは71才になっている。果たしてわたしという人間資材が有用であったかどうか。今朝はふっとそれを考えた。それを否定するならば、今後にそれをゆだねねばならない。死ぬまでに肯定に転じなくてはならないと思った。しかしそれは起業して何か大仕事をするということではあるまい。やはり自己と向かい合うことであるように思う。現在する自己を積極的に肯定して行くことであるように思う。