生きている内である。死んだらやれない。だからやっておく。といってそれがたいしたことじゃない。地球の重力と同じくらい重厚なことをするのじゃない。重責を果たすのでもない。外に出ているだけである。夕月を見ているだけである。もう半月だ。白い月が懸かっている。別段珍しくはない。でも死んだら見られない。生きている内にしか見られない。だからしみじみと見ている。見たからといってそれだけ新しい価値が生まれるのではない。何かが生まれるというものでもない。それを承知で外に出て白い月を仰いでいる。それでご縁が深まったような錯覚をして充足にひたっている。
我が住むところ城原の中に「菅生」という小集落がある。「菅(すが)」は「すげ」の古い呼び名。「すげ」はカヤトリグサ科スゲ属の草本の総称。日本に約200種が自生する。昔の人はカンスゲ、カサスゲの葉を刈り取って菅傘や蓑を作った。葉鞘は管(くだ)になって茎を囲んでいる。菅生はだから菅が生えていた原野だったかもしれない。城原川の流域である。洪水がしきりに起こっていたことも考えられる。祇園川が流れ込んで合流しているあたりは浅瀬で、ここに多くの鴫や鷺が集まっている。サイクリングをしているときによく見かける。
ふふふのふは含み笑いのふです。ふんわりしています。こころがふっくらします。
わたしも摩訶迦葉(マハーカッサパ)尊者に倣って粘華微笑(ねんげみしょう)します。蓮の華の代わりに左手の人差し指を立てちょっと揺らして、右手の人差し指に揺れを受け、にっこり。
これは「分かりましたよ」の合図です。向こうにはお釈迦様がいらっしゃいます。粘華してこちらを見ておられます。以心伝心。こころがこれで電導します。お釈迦様の言わんとした意を悟りましたよの印です。
ここは仏の世界です。わたしたちはここに足を踏み入れていますから、仏の指し示される法が誰にでも領下できるようになっています。
この場合の法は現象というほどの意味合いです。具体的に現れたもの、現象です。仏の意が具体化するとそれが現象になります。自然界の様々な現象です。
そこにある「それ」にはだから意図があるのです。仏の意図が籠もっています。発揚をいまかいまかと待っています。「分かりました」の合図をするとそれがスタートのピストルになります。
庭の一隅(お隣さんとの境界線は水が流れる溝になっています)にミゾソバが咲いています。蓼(たで)科の一年草です。水辺を好みます。葉は三角形。蕎麦の花に似ています。秋になって白色紅色混じりの小花を着けます。今が盛りです。若葉は薬用で、リューマチを治します。たいしたものですね。いとも小さい草なのに、人間のお医者さんです。
「わたしたちはみなあなたの味方ですよ」「わたしはあなたを見守っていますよ」「決してあなたを苦しい目には会わせませんよ」という仏の意がこの小さな草にも籠もっています。わたしはこれを読み取って「分かりました」「有り難うございます」「わたしは今日を安んじています」を呟けばそれが粘華微笑(ねんげみしょう)になります。わたしはそこで「仏に守られているわたし」になってすっくと立ち上がり胸を張るのです。
ミゾソバからしたらわたしがその役目です。わたしを見たミゾソバがそれを解してすっくと立ち上がり胸を張るのです。にっこりして。「それ」とは仏の意、仏さまのこころです。互い互いにその役目を発揮し合っているのです。人にも草にも、空にも山にも、海にも風にも、背景に仏の意が広がっていて、「癒す力」「元気にする力」「相手をにっこり微笑させる力」がどっさり注入されています。
おはようございます。朝が来ています。室内の気温は21度。はっきり寒いので押し入れを探してねんねこトッポを見つけ着込みました。冬モードです。ズボンも厚手にしました。障子を開いて外を覗います。磨りガラスの向こうに姫林檎の狂い咲きがほんのり赤く頬を染めてこちらを見ています。眼がぶつかります。花の少女たちにどぎまぎします。ただいま6時半。空が白んでいます。風はまったくありません。華奢(きゃしゃ)なアスパラガスの揉み葉だって動いていません、微かにも。今日は高志神社に伝えられている古い郷土の芸能「高志の狂言」を見に行きます。楽しみです。市の中央公民館に集まってマイクロバスで出掛けます。