幸福だけで、さぶろうは幸福になれるか。そこまで高いところまで進んで来ているか。あやしい。不幸がそこに混じり込まないと、一片の幸福すら、幸福と受け取れないのではないか。悲しみに出逢ってはじめて泣けるのではないか。己の幸福に泣いているか。さぶろうは己の幸福に泣けているか。あやしいのである。いい加減なのである。誤魔化ししかできていないのである。嘘泣きである。地獄の底に辿り着かないと極楽浄土が視界に収まらないのではないのか。さぶろうの苦悩辛酸はさぶろうを涙に溢れさせる。だからこれはさぶろうにとってはなくてはならない地の塩である。よろこびだけでよろこべる人間からは程遠いさぶろう。苦しみというお慈悲をおいただきする。嘘泣きだけの人生を過ごしてはならない。嫌々ながらだが、さぶろうが不幸を頂く。病を頂く。老いを頂く。死を頂く。本物の涙に行き着くために。
さぶろうを佛にするまでは法蔵菩薩は阿弥陀如来にはなれない。さぶろうを佛にするという誓願を建てられたからである。それが成就しなければわたしは佛にはならないという誓願である。しかし、佛にしかさぶろうを佛にする力はない。佛でなければこの横着者のさぶろうを佛にする力量は生まれ得ない。だから、法蔵菩薩は阿弥陀如来になっていなければならないのである。阿弥陀如来が阿弥陀如来であることを信じる力はさぶろうにはない。疑ってばかりだ。否定してしまうばかりだ。信じる力は阿弥陀如来から頂かねばならない。そのためにはどうしても法蔵菩薩を阿弥陀如来にしておかねばならないのである。念仏することでやっとそれがかなうのである。否定が肯定に変わるのである。二者の駆け引き、綱引き、引き合い押し合いが真剣味を帯びている。ひたひたひたひたお慈悲の波が横着者のさぶろうの岸辺に押し寄せている。さぶろうは波に濡れる。