親鸞聖人が著された「現世利益(げんぜりやく)和讃」の15首の和讃の、スタートはこうなっている。
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阿弥陀如来 来化けして 息災延命のためにとて 金光明の寿量品(じゅりょうほん) 説きおきたまへる みのりなり
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よいことばかりが書いてある。こんなによいことだらけでいいのかと思うほどに<よいこと>が書いてある。それを和讃にしてある。誰もがうなづけるように和讃(日本文で書いた仏陀礼賛文)にしてある。
<よいこと>は、わたしが阿弥陀如来から頂くご利益のことである。
安心していい。無料無償である。有り難うの強制要求もなし。お返しなしである。
しかも現世で受けているご利益である。こちらから頼んでそうなっているのでもない。一方的に阿弥陀如来が、こういうものを欲しがっているであろうと推量して、それで調達して、わたしに届けてくれるものばかりである。
<頼んでもいないのに>、ここがミソである。仏様のお慈悲というのは、こちらが頼んでやっとしてくれる如き安物類ではない。それくらい(お金をもらって頼まれるくらい)なら、娑婆の悪ガキのわたしだって、できる。
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「来化(らいけ)」は、「向こうの方からわたしのところへ歩いて来てくださって、すすすっと化仏されて」の謂である。「化仏」は仏の姿をとられることである。仏様は法身であるから、わたしの目には見えないのだが。たいがいは、仏のお遣いの菩薩様、行者様が、この役目をなさる。見えないでも、仏のハタラキは有効である。
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「金光明の寿量品」とは、阿弥陀如来のお誓いを説かれている浄土三部経のことだと、わたしは受け取っている。
「みのり」は「結果」「阿弥陀如来のお慈悲の結果」と受け取っている。それが「ご利益」である。阿弥陀如来からのわたしへの一方的な届け物である。わたしはそれを利用し、それで益金を受けている。
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阿弥陀如来からの届け物の第一が、わたしの「息災延命」である。この利益をわたしは無償で受けていることができる。礼金は要求されない。礼金要求は、すべていかさまである。
いいことばかりなのである。
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阿弥陀如来がわたしのために説いている「金光明の寿量品」を、わたしは無視していない。受領している。仏が届けて来るご利益(りやく)を日々この現世で受けていながら、「受けていない」とは言えない。