さぶろうは欲張りである。これがよくない。欲が張った分は執着になって残ってしまうからだ。できるだけ、だから、淡泊がいい。さらりさらりがいい。水が流れるように、流れて行った方がいい。欲張りは欲を残してしまうので、水のようには流れない。欲の解消がすむまで一点に止まってしまうことになる。
わはは。次の地点にも楽しみがあるのに、結局は、いまの欲望の消費に時を費やしてしまうことになる。それで次の地点の楽しみにまで至り着かない。宇宙はご存じの通りどんどこ膨張をしている。なぜか? 楽しみが膨張をしているからである。数限りない楽しみが新たに誕生するので、その場所を提供しなければならないのだ。
一定点の楽しみに固執するのが悪いわけではないが、楽しむべきはそれだけではないのである。倍の倍、そのまた倍の倍という具合に次々と楽しみは質量ともに倍加するのである。
さぶろうは、楽しんだ分は輝くのだと想像している。輝きの単位がなんだか知らないが、地球にいて楽しんだ分、つまり今生で楽しめた分が、仮に100輝きだったとすると、次の飛行地点の星では100の倍の200輝きになる計算である。或いは、100輝きの100倍かもしれない。そうすると200輝きどころではない。
欲張りはそれを知らない。今生でお金持ちになることが唯一最大だと勘違いしてしまう。今生の幸福量が唯一最高だと勘違いしてしまう。次の地点へ行ってみてはじめて、なあんだ俺の欲なんてのは実は限りなく小さいものだったなあ、とそこでやっと気づくことになる。
今生の生を終わることを悲しみだとしている向きがあるけれども、この認識にしても同様である。悲しいは悲しいけれども、それを打ち消して余りあるほどの楽しみが次章、ネックスチャプターで待っているのである。それを悲しみとしないでもよかったんだということを後で知るので、これもやっぱり「なあんだそんなことだったのか」ということになる。
今生の価値基準を唯一最上最高とはしなくていいのである。生死を繰り返すたびごとに命の輝きが増してくる。命の哲学が深くなる。魂の充足が強くなる。あっけらかんとなる。気宇広大になる。軽々となる。爽快になる。そういう風に考えると、それがまた楽しいのである。