相手のこころの深さは自分のこころの深さ以上には読み取れない。読んでいる本にそう書いてあった。そうなのか。
人間と人間との間でもそうであれば、深い深い仏界の智慧の深さ、慈悲の深さをさぶろうが読み取れるはずはない。さぶろうに働きかけてくるハタラキの深さが分かるはずはない。それを酌量して、それでわが意に適うだとか適わないだとかを判断して来たのだ。
死を恐がっているのは、わたしの酌量の小ささに起因するものだったのだ。死をどう見るか。どう見てどう安堵するか。
わたしのいのちが仏界のハタラキによって活動を得ているように、そのようにわたしの死もまた仏界のハタラキに依拠しているのだが、わたしはそのハタラキのうちにある死を恐れている。それはただわたしの思量の浅さだったのか。仏界の深さにわたしの深さが及ばなかっただけのことだったのか。
しかし、それしかないではないか。それでいい。仏のハタラキを読み取れないほどのわたしの小さな度量計でいい。それで何事もない。これまでもずっとそうではなかったか。それで済ましてきたのではなかったのか。
安堵や安心は仏界への距離に比例しているのではないか。さぶろうはふっとそう思った。距離が近くなるにつれて安打や安心が深まってくるのではないか。行けども行けどもしかしさぶろうと仏界との距離はそうそう埋まるわけではない。近づくのではなくてただ周辺をぐるぐる回りということもある。
極楽往生というのは、安堵と安心の極楽往生なのではないか。往生をすれば一気に距離が縮まるのではないか。仏に迎え取られて仏界と合一するときに、これまでの恐怖心がすっかり払拭されて、安堵と安心に行き着くことになる。さぶろうはそんなふうに思って見た。