<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

疲れたはずなのに疲れていない 不思議だ

2019年05月30日 20時53分46秒 | Weblog

ああ、ああ、楽しかった! その一語に尽きる。何をしたからそうなるのか。いや、取り立てていうほどのことはしていないのである。何一つ。畑にいただけなのである。

一日が終わった。7時過ぎまで畑にいた。あれこれ、気が付いたことをちょこちょこしていた。苗を移植したり、草取りをしたり、殺虫剤を降ったり、施肥したり、紐で結んでやったり、水撒きをしたりして。あっちへこっちへ動き回って。

日が降り注いでいるとしは、さすがに暑かった。背中に汗が滑り降りてきた。日が沈むと一気に暗くなった。まだいたいのに、いられなくなった。することは次々に見つかるのである。疲れたはずなのに疲れていない。不思議だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は俳句に興味をそそられた 石井露月の句に

2019年05月30日 15時56分48秒 | Weblog

芹採るや短き芹は流れけり      石井露月

村里を貫いている小川に、澄んだ水が流れている。砂が堆積しているところは、洲になっている。そこに昔は芹が生えていた。冬がやっと終わって春が顔を見せ出すと、小川に降りて行って、じゃぶじゃぶ足を濡らして、洲へ辿り着き、芹を摘んだ。小さなナイフを上手に使って「てぼ」に投げ入れた。「てぼ」は竹製の小さな竹籠で、取っ手がついていた。短い芹は、てぼから落ちて、水に浮かんですういすういと流れ去って行くが、芹は沢山生えているから、それを惜しむこともなかったのである。

石井露月(1873~1928)は秋田の生まれ。正岡子規に才能を認められた。高浜虚子、河東碧梧桐と並び称される。後に、医者となった。イギリスで俳人石井露月研究が盛んらしい。

花野ゆく耳にきのふの峡の声  これが遺吟となった。

今日は俳句に興をそそられた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行き来したのは 何物だったのか 

2019年05月30日 07時47分53秒 | Weblog

お昼寝をしてた、いつのまにやら。座椅子に座った姿勢のまま、前のめりにのめり込むようにして。ウトウトというのはいつもながら気持ちいい。その間すうういと眠りの世界へ移り住んで行き、そしてまた戻って来た。行ったり来たりした主体者は何物だったのか。小一時間たったか。窓の外の日がやや薄らいで、雨蛙がゲコゲコと鳴いている。さては、雨になるのか。と思いきや、また照りだした。

客人が玄関に立っておられる。おやや、おやや。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そのわたしの姿が 俳句の目の 視界に入り込む

2019年05月30日 07時33分31秒 | Weblog

死んでゆくものうらやまし冬ごもり      久保田万太郎

季語は冬籠もり。冷たい雪の下に冬籠もりして熊も蛇も蛙も冬眠する。人もこれに準じる。活動低下を試みて生き抜く。一方でさらりと死んで行くものがいる。それがふっとうらやましく思われて来る。もう一冬を生き抜こうとしている人間のわたし。生き永らえたいという欲望けばけばの、執着体毛に覆われた、獣としてのわたしがいる。そのわたしが、俳句の目には見えて来る。

此の世には、生きようとしているものと、死んで行くものとがいる。どちらがいいか。いいとも悪いとも言えない。ただうらやましい。死んで行く者は生きて行ける者がうらやましい。生きている者は、執着せずにあっさりと生を棄てきって行く者がうらやましい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光りが天にも地にも溢れている 今日を楽しもう

2019年05月30日 07時23分47秒 | Weblog

今朝の思考散策のぐるぐる回りは、これで終わろう。結論が導き出せるわけじゃない。

まもなく7時半。朝ご飯を食べよう。それから畑に出よう。お天気がいい。さわやかだ。光りが溢れている、天にも地にも。今日を楽しもう。

ふふふ、ふ。ズッキーニの雌花は幾つ着いたかな? 雄花だってじゅうぶん可愛いけどね。雌花にしか実が実らない。(人間はどうなんだろうね。質問にならないか) 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己の幸福は 自己規定の満足に拠る のか?

2019年05月30日 07時13分01秒 | Weblog

どれだけの距離に到達しようが、とどのつまり、「幸福は自己規定の満足にあり」だけだとしたら、どうだ? 時間数も距離数も度外視して、「はい、わたしはこれで十分満足のいく人生でありました」でジ・エンドすればいいことになるのか。量より質なのか。質は量ほど単純には行かないぞ。質を問われたら、手強いぞ。

そろそろ、この老爺の人生もジ・エンドを迎える。生きている間さんざん悪態悪行を連ねておいて、最後だけ「ああ、いい人生だったなあ」というのも、あまりにも手前勝手に見えて来るけれども。少なくとも他者の評価は得られないだろうねえ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は誰でも一生涯で同じ距離を歩いて終わるか

2019年05月30日 06時56分59秒 | Weblog

人は一生涯で誰でも同じ距離を歩いているか。同じ距離を歩いて終わりになるか。そういうわけでもあるまい。それぞれ思い思いなのだろう。では、距離は問題ではないのだろうか。一生で何キロ進んだという人生距離を、人生を測る計測数値にしないでもいいのかもしれない。

じゃ、なんだ? 距離は無視している方がいいか。途中途中で休み休みして、バラエテイを有効活用して、そのバラエテイをこそ楽しんでいる。そういう選択肢はどうだ? 片方では、人生時間の距離数をできるだけ長く延ばしたいという欲求、つまり長生き欲求が蠢いている。やはり時間と距離に拘っている。ぬぐい去れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何がロス(損失)だったのかは それぞれで異なる

2019年05月30日 06時48分30秒 | Weblog

ミミズが川土手の小径を横切っている。もっと早く進めないかと思うが、のろのろのろである。炎天の直射日光が照りつける。渡り終わらないうちに、ミミズは干涸らびてしまう。ではミミズは、ミミズ生を楽しめなかったのだろうか。夏になるとそういう風景を目にする。

超特級新幹線は東京大阪間を短時間で結んでいる。時間のロスが少なくてすむ。ロスが少ない方がいい、という法則は、しかし怪しい。法則にはなり得ない。何がロスだったのかは、それぞれでまちまちだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のろのろと歩いて のろのろと生きている方がいいか

2019年05月30日 06時06分32秒 | Weblog

時間x時速=距離、でしたよね。時速1000m/hで10時間歩くと10000m。時速を2倍の2000m/hにすると5時間で同じ距離を歩くことが出来る。のろのろがいいか。急いて急いているのがいいか。のろのろと生きている方がいいか。のろのろと100年を生きるという人生の楽しみ方。でも半分の50年で同じ量の人生の楽しみを尽くしてしまうという生き方もある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

膨張希薄型長時間睡眠と圧縮高濃度型短時間睡眠とがありそう

2019年05月30日 05時50分02秒 | Weblog

今朝は5時起きでした。夜9時にはすでに入眠していますから、睡眠時間はこれで足りています。1日は24時間。そのうちのほぼ3分の1は、こうして寝ています。4分の1の6時間睡眠で暮らしている人もけっこう多いかも知れませんね。禅堂なんかでは朝の3時に振鈴が鳴ります。修行者は6分の1の4時間なのかもしれません。その分、睡眠の濃度が濃くなっているので、まるまる熟睡になっているのかもしれません。それを圧縮高濃度睡眠タイプと呼ぶのなら、わたしの場合は膨張希薄睡眠タイプということになります。量ではなくて質の問題ということになるでしょう。長々とゆったりゆっくり寝ているのもいいのですが、睡眠快楽がぎゅっと短く詰まっているのも魅力的に思えます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする