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<小京都> 岩手 水沢

2022-07-08 07:54:25 | 小京都

 「みちのくの小京都 岩手 水沢」

 岩手県中央部にあり盛岡市の南に位置する。市内には同じ小京都の盛岡市から流れてきた北上川がある。
 南部鉄器のふるさとで、現在も多くの工房がある。
 市内を歩けば南部鉄器を利用した公共物(橋の高欄や街路灯など)やモニュメントを見ることができるのもそのためだ。
 「水沢市伝統産業会館(キューポラ館)」では南部鉄器の製作過程や歴史を学べる。

 岩手県で一番小さな市ながら、時代を築いた偉人を生んでおり、高野長英(幕末の蘭学者でシーボルトの弟子)、後藤新平(内務大臣)、斉藤實(2.26事件で暗殺された当時の首相)の記念館がそれぞれあり、遺品などが保存・公開されている。
 水沢の歴史は古く坂上田村麻呂により造営された鎮守府があり、胆沢城跡として発掘されている。
 ここでは、酋長であったアテルイとの攻防戦の地して今日に語り伝えられる。

 江戸時代は伊達一門の留守家一万六千石の城下町となり、こちらは武家屋敷が残っている。
 殿様が江戸を訪れたときに火事の多さに驚いたところから始まった「日高火防祭」は四月の末に行われる防災をテーマにした珍しいもの。
 水沢公園は桜とツツジ祭りで賑わう市民の憩いの場所。

 「城下町水沢と町人」

 水沢の町は水沢城(伊達二十一要害の一。臥牛城とも)を中心に家臣の屋敷、その外側に町人の家屋、その更に外側を寺院に取り囲まれた、典型的な城下町の構成をしています。奥州街道、秋田街道、黒石街道などの各街道、また、乙女川や北上川の舟運とも結ばれており、古くから地方物産交流が盛んに行われてきました。江戸時代になると「商品が豊富で値段も安い」と近郊都市からも客がやってくるほどの盛況ぶりとなり、商人たちの熱心な姿勢は『水沢商人が歩いた跡には草も生えない』と評されるほどでした。

 この地を治めた水沢伊達氏は家格が高く、家臣も多く抱えていましたが禄高が奮わないため経済状況は芳しくなく、初代領主宗利の時代に漁網や筆、煙管の生産が、下級武士を含む城下の民や農民たちに奨励されました。中でもかつて宮城県岩切・利府周辺を治めていた頃の経験を活かした手漉き麻製の漁網は、北上川舟運で沿岸まで運ばれ、北は蝦夷地(北海道)から南は房総半島まで販路があるほど好評を博し、商人たちの取引が活発になる起爆剤となりました。

 安政の大火や幕藩体制の崩壊という大きな時代の流れ、さらに自由取引や鉄道開通、道路の発達によってさらに活性化した商業取引は、明治23(1890)年の水沢停車場開通によって大きな山場を迎え、大戦景気の大正時代を経て、昭和4(1929)年の世界恐慌、昭和8(1932)年の三陸地震や冷害などにより減退していきますが、関東大震災後に普及した看板建築など独特の街並みが今も残されています。

*https://www.city.oshu.iwate.jp/site/samurai/47470.html より

 「水沢 塀が境する雪の道」

 水沢は伊達家の家臣、留守家の城下町として発展しました。古い町並みは断片化していますが、往時の武家屋敷の塀や門が多く残されています。

【1】日高小路。水沢では東西方向に走る数本の小路が武家屋敷地となりました。
【2】突き当たりに日高神社があります。水沢城の初代城主・留守宗利が改修し、境内には宗利・宗直父子の墓所があります。日高小路はこの神社の参道でもあるわけですが、武家屋敷地が参道を兼ねるのは珍しいと思います。
【3】道沿いに武家屋敷が残されています。敷地のうち門のある辺にのみ塀を立て、それ以外は生垣とする家が多いようです。

 水沢は寛永6(1629)年に留守宗利が金ヶ崎から水沢城へ移封されたことで、本格的に城下町として整備されました。水沢城は現在、奥州市役所があるあたりに築かれ、城の東から南にかけて武家町が、さらにその東側に商人・職人町が整備されました。

 商人・職人町は駅前の繁華街となったため古い町並みはあまり残されていませんが、武家町では数軒の武家屋敷を見ることができます。しかし町全体でみれば宅地化が進んでおり、連続性のある町並みはそれほど見られません。

 往時の面影をよく残すのが日高小路と吉小路です。日高小路には武家屋敷の安倍家があり、白しっくいの土塀がめぐらされています。この安倍家は武家門もしっくいで塗りごめられ、一風変わった姿をしていました。主屋は非公開ですが、明治期に建て直された数寄屋風とのこと。水沢では同様に明治以降に建て直された武家住宅が多く、八幡家(大手町)や高橋家(大畑小路)も主屋は明治時代の和洋折衷建築です。

 吉小路では2棟の武家屋敷が一般公開されています。内田家旧宅は茅葺きの薬医門と主屋をもつ大型の屋敷で、主屋は18世紀後半に建てられたもの。門をくぐってすぐのところに式台玄関がある格調高い家で、土間や台所などの生活空間は裏側にまとめられています。

 もうひとつの公開施設、後藤新平旧宅は18世紀中ごろの建築。こちらも門の正面に式台玄関がありますが、途中に笠塀を立て、正面からは見通せないようにしています。
 ちなみに後藤新平は留守家の奥小姓の出身の政治家で、関東大震災後は帝都復興院の総裁として東京市の復興計画を策定しました。

*http://machinokatachi.main.jp/03/03_mizusawa.html  より

 =岩手県の小京都・水沢(奥州市)の観光ポイント=
 江戸時代からの「城下町」

 時代を超えて「武家屋敷」が残る

  奥州市武家住宅資料館

  江戸末期の内田家旧宅、後藤新平旧宅の武家屋敷と武家住宅資料センターの施設があり、センターでは、城下町水沢をテーマに、江戸時代の水沢城の町並みと現在を一目で見られる地図をはじめ、鎧や火縄銃、槍などの武具や武器のほか帳場格子や算盤などの資料を展示しています。
市内観光の起点となる施設で無料休憩所となっております。

*https://iwatetabi.jp/spot/detail.spn.php?spot_id=201 より

 名刹の「お寺」がある

  正法寺

  正法寺は南北朝時代の貞和4年(1348年)に開かれた東北地方最初の曹洞宗寺院で、文化8年(1811年)に建築された法堂・寛政11年(1799年)頃に建築された庫裡・寛文5年(1655年)に建築された惣門は、国指定重要文化財に指定されています。

  茅葺き日本最大級といわれる大屋根が圧巻の法堂は、間口約30メートル、奥行約21メートルの大きな茅葺の建物で、内部の広大で豪快な造りなどに寺の格式の高さと近世仏堂の特徴がよくあらわれています。庫裡は間口約33メートル、奥行約17メートルで、法堂に次ぐ規模の大きな茅葺の建物です。惣門もあわせて伽藍の保存がはかられており、現在も全国各地から修行僧が集まり、厳しい修行を行うなど、東北地方における曹洞宗の中心として信仰を集めた雰囲気は今に受け継がれています。
  また、秘佛本尊の「如意輪観世音菩薩坐像」をはじめ、「開山無底良韶禪師頂相画」など岩手県指定文化財も多数あり、その一部は宝物庫で保管されています。

*https://www.city.oshu.iwate.jp/site/kanko/5856.html より

 京都の影響を受けた伝統の「お祭り」が今も続く

*https://www.little-kyoto.com/iwate/mizusawa.html より

 


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