「 堺アルフォンス・ミュシャ館」
堺 アルフォンス・ミュシャ館は2000年に開館。19世紀末から20世紀初頭にかけて花開いたアール・ヌーヴォーの代表的な芸術家、アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)の初期から晩年期にわたる作品を年3回の企画展で展示。様々なテーマでその創作活動を紹介している。堺市が所蔵するミュシャとその関連作家の作品約500点は、株式会社ドイの創業者・土居君雄(1926〜90)が収集したもので、ポスターや油彩画、素描や宝飾品など多彩な作品で構成されている。
企画展のほか、ミュシャに関する講演会やワークショップの開催、鑑賞教育の実施など、より多くの人々がミュシャと出会える環境づくりを目指している。
*https://bijutsutecho.com/museums-galleries/759 より
「アルフォンス・ミュシャ」
アルフォンス・ミュシャはオーストリア=ハンガリー帝国領モラヴィア(現・チェコ)生まれの画家・デザイナー。1878年、18歳でプラハの美術アカデミーを受験するも不合格となり、翌年からウィーンで舞台装置などを専門とする工房で助手として働きながらデッサンの講座に通う。81年、工房の最大の取引先・リング劇場が焼失し、経営難のため解雇される。ミクロフ(現・チェコ南部)に移り、土地の名士の肖像画を描くことで生計を立てる。このときに出会ったクーエン・ベラシ伯爵がパトロンとなり、ミュンヘンの美術アカデミー、そしてパリのアカデミー・ジュリアンへの入学が実現する。
パリに出たのは88年、28歳のとき。その1年後に伯爵からの援助が断たれ、小説などの仕事を受ける。無名の画家であったが、女優サラ・ベルナール主演の舞台『ジスモンダ』のために制作したポスターが瞬く間に人気となり、一躍時代の寵児となる。その後、代表作「四季」(1896)や「四つの花(花4部作)」(1898)といった季節の花をまとった優美な女性像の装飾パネルや、商業ポスターなどを手がけた。また、サラ・ベルナールの当たり役となった『椿姫』では、ポスターだけでなく衣装デザインも担当した。
1910年、50歳のときに帰郷。後半生の約16年間を《スラヴ叙事詩》(1912-28)の制作にかけ、古代から近代に至るスラヴ民族の苦難と栄光の歴史を、大きいもので縦6×横8メートルにもおよぶ壮大な油彩画20点に大成させた。18年、チェコスロヴァキアが共和国として独立。新政府から郵便切手や紙幣のデザインを依頼され、国民的芸術家として認められる。39年、ドイツの侵攻を受けてゲシュタポに拘束され、数時間にわたる拘束の後に釈放される。持病の肺炎が悪化し、79歳で死去。日本では2017年、《スラヴ叙事詩》の全20点をチェコ国外では公開する展覧会「ミュシャ展」が国立新美術館で初開催され、延べ65万人を動員した。
*https://bijutsutecho.com/artists/767 より
「株式会社ドイの創業者・土居君雄氏」
土居 君雄(どい きみお、1926年3月23日 - 1990年10月2日)は、日本の実業家。ドイ(カメラのドイ)創業者。広島県広島市出身。
来歴・人物
1943年、関西甲種商業学校(現関西大学第一高校)卒業。戦後大阪で伯父の写真材料会社に勤務。左前となったため1956年、妻の郷里・福岡県福岡市で土居商店として独立した。当初は問屋から製品を仕入れ小売店に納入する二次卸だった。メーカー直結の問屋が流通経路を牛耳る時代、新参者が食い込む隙はなく苦戦。悩んだ末、末端の写真館やDPE店、土産物屋へのダイレクトメールを思いつく。これも当時は簡単に資料が集められず、市町村役場の商工係にアンケート用紙を送り顧客名簿を作成した。九州一円や中国地方にカメラやフィルムが当たるくじを付けると回収率が8割にも達した。この名簿を元に安売りチラシを無差別に配ると商売が大当たりした。
二次卸に留まっていては限界があるとして、1959年、小売部門に進出し社名を「ドイ」と変更。後発のハンデでまたも苦戦するが、九州のラジオの深夜30分番組を買ってCMを流し知名度を上げた。1972年東京に進出しチェーンストア展開を加速させカメラ、写真用品の他、家電製品なども取り扱い1975年には新宿へ出店。ヨドバシカメラら競合店と「新宿カメラ戦争」と呼ばれた安売り合戦で話題をまき知名度を上げた。同姓の土井正三と土井淳らを起用したCMの効果もあり、ピーク時には九州、関東、関西地方などに約130店舗を展開。1989年度の売上は346億円に達し、カメラの専門店チェーンとしてはヨドバシカメラ、ビックカメラに次ぎ日本で第3位となった。
しかし1990年、病気のため急逝。「これからは女性の時代」との予感から、後継には長女を選んだと言われる。ドイはその後、2003年8月に民事再生法の適用を申請して倒産し再建を目指したが2006年3月8日破産した。
戦時体験から「もったいない」が口癖で、中古のテレビを社内に持ち込んで使う等、名前をもじり「ドケチ」といわれた。酒・タバコ・ギャンブルもやらず、業界の付き合いもまったくしなかったといわれる。稼いだ金は好きな洋画と自動車の蒐集につぎ込んだ。特にアルフォンス・ミュシャとBMWの世界的コレクターであり、どちらも土居の死後、遺族から大阪時代に居を構えた大阪府堺市に寄贈され、現在ドイ・コレクションとして公開されている。日本でのミュシャの紹介者の一人であり、1989年、チェコ文化交流最高勲章が授与された。
*Wikipedia より
わが街 堺にあるのだが・・・ 個人的に好きではないので行ったことがない。
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