タリバンに拉致された韓国人の23人の命が心配だ。
殺人はしないという約束など交渉が進展しているようだがまだ楽観はできないだろう。
日本人が3人拉致された時のように韓国メディアの一部は彼らを非難する意見があるという。
彼らはキリスト教徒だが、ボランティア活動のために入国したと報道されている。タリバン側を刺激しないために布教活動はしていない事を強調しているらしいとか、報道のされかたが当然のごとくイスラム教対キリスト教を匂わせている。
彼らの笑顔の写真を見て「こういう事態を考えなかったんでしょうか?」とかいかにも危険地域に行く事をピクニックに行くような感覚のように彼らを見てとらえて意見を述べている人がいる。はっきりとはいわないがバッシングに近い意見だった。
危険地帯と知っていて出かけているということはそれだけの覚悟があってのことだと思う。彼らのやっていたボランティア活動は悪い事なのだろうか。こういった報道を見るとその人にこう問いたくなる。
「危険な紛争地帯に行って困っている人たちに支援することは悪い事ですか?あなたにはできることですか?」と。
聖書の中でイエス・キリストがこんなたとえ話をしている。
当時、祭司長や律法学者のような権威者達はイエスを妬み、嫌っていた。そこでいろいろな質問を投げかけて陥れようとしていた。そんな背景の中でのたとえばなしである。
ルカの福音書10章25~37節
するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠の命を自分のものとして受ける事ができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法には、なんと書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」
しかし、彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもはその人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま祭司が1人、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところがあるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうにおもい、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
当時サマリヤ人とユダヤ人の関係は険悪であった。互いに口を利くこともなければ助け合う事などなく、時には戦う事もあったようである。
韓国のキリスト教会からボランティアに言った人々はこの御言葉を実践したのではないだろうか。
アフガニスタンでは政府機能がまだ確立されていない。現地の人々はリーシュマニアという病気に苦しんでいる。生活すら整っていない。学校さえボランティアの手によって立てられているのが現状だ。国と国の政府間の支援もあるがそれにも限りがある。場合によっては草の根の交流や支援のほうが役立っている事だってあるのだ。
彼らは支援の必要な国に、文化も宗教も超えて支援をしているだけなのだと思う。彼らをその地へ向わせたものは隣人愛だ。他国の文化に入る時の心得は必要としても、彼らのように実践できないものが批判をすべきではないだろう。
彼らの無事を心から祈る。
殺人はしないという約束など交渉が進展しているようだがまだ楽観はできないだろう。
日本人が3人拉致された時のように韓国メディアの一部は彼らを非難する意見があるという。
彼らはキリスト教徒だが、ボランティア活動のために入国したと報道されている。タリバン側を刺激しないために布教活動はしていない事を強調しているらしいとか、報道のされかたが当然のごとくイスラム教対キリスト教を匂わせている。
彼らの笑顔の写真を見て「こういう事態を考えなかったんでしょうか?」とかいかにも危険地域に行く事をピクニックに行くような感覚のように彼らを見てとらえて意見を述べている人がいる。はっきりとはいわないがバッシングに近い意見だった。
危険地帯と知っていて出かけているということはそれだけの覚悟があってのことだと思う。彼らのやっていたボランティア活動は悪い事なのだろうか。こういった報道を見るとその人にこう問いたくなる。
「危険な紛争地帯に行って困っている人たちに支援することは悪い事ですか?あなたにはできることですか?」と。
聖書の中でイエス・キリストがこんなたとえ話をしている。
当時、祭司長や律法学者のような権威者達はイエスを妬み、嫌っていた。そこでいろいろな質問を投げかけて陥れようとしていた。そんな背景の中でのたとえばなしである。
ルカの福音書10章25~37節
するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠の命を自分のものとして受ける事ができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法には、なんと書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」
しかし、彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもはその人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま祭司が1人、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところがあるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうにおもい、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
当時サマリヤ人とユダヤ人の関係は険悪であった。互いに口を利くこともなければ助け合う事などなく、時には戦う事もあったようである。
韓国のキリスト教会からボランティアに言った人々はこの御言葉を実践したのではないだろうか。
アフガニスタンでは政府機能がまだ確立されていない。現地の人々はリーシュマニアという病気に苦しんでいる。生活すら整っていない。学校さえボランティアの手によって立てられているのが現状だ。国と国の政府間の支援もあるがそれにも限りがある。場合によっては草の根の交流や支援のほうが役立っている事だってあるのだ。
彼らは支援の必要な国に、文化も宗教も超えて支援をしているだけなのだと思う。彼らをその地へ向わせたものは隣人愛だ。他国の文化に入る時の心得は必要としても、彼らのように実践できないものが批判をすべきではないだろう。
彼らの無事を心から祈る。