別に、バイクに乗って、疾けりゃエライなんて微塵も思っちゃいない。
また、通常、バイクの世界において乾坤一擲、なんてのは擬似的な勇猛か、誤謬か、傲慢に過ぎない。彼は、そう遠からず破綻するだろう。
オレ的には、社会的合意から大きく逸脱しても、自己の能力で担保可能な感覚的折り合い、というのが領域、と考える。
また、疾い遅いは、個々人の信じるところを論じるコトであって、個々人の絶対的に任意な聖域、というのがオレの主義だ。
だから、一緒に疾った後のダベりは楽しい。
色んな工夫というか、法則/教訓というか、経験則というか。
これは、経験的にワリと同意できるものが多いし、双手をあげて同意できなくても尊重されなければならないように感じたりする。敬意といってもいいかもしれない。
その合意と共感を拠り所とする敬意に基づいて、「遅いの疾いの」「ウマイのヘタだの」「あーでもないこーでもない」を語ることがお互い許される、と思う。
んでもね。
こんなこと言ってるとキラワレるの、よーく知ってるけど、カンベンして欲しいモノがある。
共に疾ったことのない人物のライディング法議論、もしくは理論、だ。
共に、疾りという時間を共有したことのない人物のソレは、オレにとっては、全くの空想か、空論でしかない。
あーでもない、こーでもない言ってても、何にもならんのは明確だから。
一緒に疾ったことないヒトが、どーのこーの言ってても、何だか、同意はしかねるし。
っつーか、聞いても、全くワカラン。だから、意味がない。
『森のおうち』なのか『モビルスーツ』なのか、判別が難しい程、意味がない。
ま、「オマエの言う事こそ、どうでもいいんだよ」ってのも、しごく、アタリマエなんですが(笑)。
精神年齢鑑定、ですって。