紙飛行機 LIVE / 井上陽水 / (1973年4月14日新宿厚生年金会館)
龍彦が死んで36年か。
あいつが生きていたら今のおれをなんていうかな。
あいつはうるさくおれの生活にいろいろ口をはさんだ。
おれも龍彦の生き方にああだこうだいちゃもんをつけた。
そのうちあいつは、ボクシングをやめ、会社をやめ、東京を離れ大阪に行った。
しかし、半年もすると東京に舞い戻ってきた。
またおれと毎日のように会いギターを弾き、酒を飲んだ。
この歌は、龍彦とよく歌った曲だ。
この「紙飛行機」という曲は、龍彦を歌ったとしか思えない。
おれが龍彦にギターを教えたのにおれよりうまくなっていた。
東京にいるときに龍彦がおれにギターを貸せというので貸しておいた。
しばらくして「おれのギター返してくれ」というと、
「質屋にある」という。
生活費がなくなり龍彦は、おれのギターを質屋に入れてた。
おれは、急いで質屋にギターを取りに行った。
このギターは、おれがギター製作所をやめた頃買った手工品で4万円した。
次の年、おれは本郷三丁目の薬品会社に就職したがそのときの月給が4万円だった。
たしかおれは、自分のギターを5千円で引き取ってきたと記憶している。
この会社には、龍彦と同じ新聞の求人広告を見て入った。
龍彦は、昼間働いて夜にボクシングジムに行きプロボクサーを目指していた。
おれは、お茶の水にある夜間の予備校に入った。
彼は、薬品を大学病院や研究室に配達することが主な仕事で、
おれは、社内で薬品を作っていた。
社員が10名弱の零細企業だった。(10年ほど前に本郷三丁目に行ったら会社はなかった)
おれは、夏が過ぎた頃、予備校に行かなくなっていた。
冬になる頃、龍彦はプロテストに受かった。
ところが、デビュー戦の1週間前に
「人を殴るのも、人に殴られるのも怖くなった」といってボクシングをやめた。
それからいつも会社が終わると2人で酒を飲んでくだをまいていた。
でもその頃、龍彦もおれも本を読んだ。
おれがそれまでの人生で一番読んだときだったと思う。
龍彦もそうだ。
あいつは、それまで本というものを読んだことがなかった。
ものごとを解決するのは殴り合いで、理屈なんていらないといっていた。
その頃、駒込に「のみたや」というスナックがあった。
そこに、山谷で日雇い労働をしていた I さんがバイトとして入った。
秋風が吹く頃、山谷には仕事がなくなったからだ。
I さんとおれは同じアパートに暮らしていた。
あることをきっかけに I さんとおれは飲むようになった。
彼は、芸大を受験して落ちて絵を描いていた。
I さんのところにはいろんな人がやってきていた。
漫画家の卵、美大や音大の学生、会社に勤める女性、水商売の女、わけのわからない人、………。
一緒になって飲んでいると文学や美術や音楽の話、女の話、男の話、哲学や人生などを熱く語り、
おれの大学のようなものになっていた。
「のみたや」に、おれの高校の友人が建築設計事務所を辞めて働くようになった。
この友人のKは、大学に入るための勉強をするといって設計事務所を辞め、
会社の寮を出ておれのアパートに転がり込んできた。。
「のみたや」は、夜通し営業していた。
I さんがいて、Kがいて、おれが行き、龍彦もギターを持って来る。
おれたちの酒は、店の酒とは別に I さんがしてくれていた。
だから、おれたちはほとんど金を使わずに飲んでいた。
「のみたや」でのエピソードはたくさんある。
あのときが、おれの青春だったと思う。