鬼六は25歳のときに、純文学の小説を書いてみた。
「生まれて初めて書いた小説「浪花に死す」は、「オール讀物」の
昭和三十一年のオール新人杯に投稿された千二百五十五篇に及ぶ小説の中から、
見事最終候補六作品にノミネートされている。」
「私が鬼六を取材しようとしたいくつかの動機の中のひとつに、
どのような本を読みどのような修業をしてきたのかを聞いてみたいということがあった。
どうすれば『花と蛇』のような荒唐無稽な物語を成立させるだけの文章力を持つことができるのか。
つまり団鬼六という作家の骨格とそれを形成した努力や訓練に興味があった。
それに加えて二十五歳で小説を書けたその理由に迫りたかった。」
大崎善生の生まれた実家は、
「挽歌」という大ベストセラーで一世を風靡した女流作家原田康子の隣だった。
大崎はいつしか小説家に憧れを抱くようになった。
彼は、「自分という小説家を仕立てるためにシステマチックに本を読んでいこうと考え、それを実行した。」
「中学時代には海外の長編を読み、なるべく読むことの基礎体力をつけようと考えた。
高校の三年間は哲学書を中心に読み、考えていることを文章化する手段を身につけると同時に、
必要最低限の理論武装をしておこうと考えた。
大学ではその当時最も優れた文学であると目されていた欧米のSFを、
一日一冊というノルマを課して読み漁った。
もちろんそれらの読書は基本の部分であって、それ以外にも日本も海外も問わず、
気になる本は次々と読みこなしていった。」
「大学に進学し二年が経ち、私はすべてのカリキュラムを終えたと感じた。
そして後は書くだけだと思い勇躍机に向かった。」
「やがて書き出した私を待っていたのは驚愕の事実であった。
書けないのである。」
なぜ小説が「書けないんだ」と友人に相談すると、「人生経験が浅いからだ」といわれる。
「新宿に行って毎日飲んだくれていればいくらでもかけるようになるさ」というのを真に受けて、
1年365日新宿に飲みに出かけたが、ただ生活が荒れるばかりで何かが書けるようになるわけはなかった。
そんなある日、大崎は新宿の場末のバーで将棋と出会う。
それからは新宿の将棋道場通いがはじまった。
結果、日本将棋連盟に勤めるとことなる。
大崎は思った。
「二十五歳で作家デビューして以来、五十年以上にも亘って小説家を続けてきた鬼六は
いったいどんな文学修業を続けてきたのだろうか、私の何がいけなかったのか。それを聞いてみたい。」
「先生は作家になるまでにどんな本を読んできたのかと、まず核心を私は聞いた。」
「それに対する鬼六の答えは『半七捕物帖』。」
「『はあ?』」
このへんのところ、私としては興味のある話でした。
「赦す人」は、書きたいことがたくさんあります。
でも私には時間がありません。
今、軽井沢の空が明るくなってきました。
カッコウの声が聞こえます。
昨日、大きなイベントがあり家に帰って疲れきって何もできなかった。
「赦す人」の感想を書かなくてはと思うのだが、身体を起こしていることができなかった。
ラジオ深夜便の2時台のサッチモのトランペットを聴いていて元気が出てきた。
今日も仕事です(午後からの夜勤)。
「赦す人」は素晴らしい長編ノンフィクションです。
SM作家の団鬼六という作家は、魅力的なひとです。
ぜひ読んでみて下さい。