父と母のこと

2022年07月04日 | 家族

今日は、おふくろの誕生日です。
そんなことから、父と母のことをいろいろ思ったりした。
私は何年か前、両親のことをまったく知らなくて情けなくなり、調べてノートに書いた。
父の生年月日は、1909年(明治42年)3月15日、
母は、1914年(大正3年)7月4日です。
私は6人きょうだいの末っ子で、父が43歳、母が38歳のときに生まれた。
父兄参観のときに母が来ると、他のお母さんより年取っていてなんかいやだった。
長女、次女、三女、長男、次男、そして三男の私です。
長男は3歳で赤痢で亡くなっていて、私は中学ぐらいまで5人きょうだいと思っていた。
なので私はずーっと次男だと他人(ひと)にはいっていた。

父は、酒と歌が好きな人でした。
(そのことは、今の私そのものです)
地域の盆踊りの日には、やぐらの上で歌っていた。
他の人が歌うときは、太鼓を叩いていた。
私が中学生になったときに吹奏楽部に入ったのは、親父の血を引いたからでしょう。
私が高校3年のとき、私たちの吹奏楽部(創部して5年)が初めての定期演奏会を開いた。
そのとき親父が1人で見に来ていた姿を、忘れられません。
定期演奏会のプログラムで、私がトロンボーンで1曲、ソロを吹いたのがあった。
もともとそれはアルトサックス用の楽譜だった。
それを顧問の先生がトロンボーンの私に吹かせてくれた。
どんな想いで父はあの会場にいたのだろうか?

母は、朝一番早く起きて食事の用意をして、夜遅く最後にお風呂に入って寝ていた。
「かあちゃんは、寝るのがいじばん(一番)すぎだ~」といつもいっていた。
私の子どもの頃は、竈に薪をくべてご飯を炊いていた。
水道はなく、15mほど離れていた井戸から釣瓶で水を汲みバケツで風呂まで運んだ。
洗濯は、井戸端でタライで洗う。
それは過酷な家事だったと思う。
そんな家事をしてから、父と一緒に母は農作業をやっていた。
あの母のことを思うと、母に対して感謝しかない。
母は、85歳ぐらいからぼけて私のことが分からなくなった。
母のいる特養老人ホームに私が行くと、
「遠いところからいつもすみません。どちらのひとですか?」
といつもいわれたことが哀しかったです。

父は82歳、母は90歳で他界しました。
私はどうも、両親の歳まで生きられそうにありません。
でもなんとか、がんに静かになっていただいて、父・母の寿命に近づきたいです。

コメント (2)
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