先日のブログで嬉野町の「戸井左近」を「戸田」と書いていて、Webの検索で引っかからないな、と思っていたが、間違いだった。
2年前に訪れていたはずだと、記憶をたどったが、ブログに書いていたのは2008年2月で、4年以上前。検索でひっかかって分かった。
こういう記憶間違いが頻発してきて、「歳」といえば許されるのかもしれないが、いささかげんなりする。
当時も書いたが、戸井左近は、信長に滅ぼされた北畠の家臣で森本城主森本俊重の義弟とも言われている。地域が日照りにあったとき、中村川の堰を切ると、下流の農民が押し寄せたとき「命にかけても守る」と言った戸井左近に「それなら腹を切ったら手をつけず帰る」という下流の農民の前で、腹を切って堰を守ったとされる。
「命をかけても」などとうかつに言うものでもないとも思うが、北畠の防戦に参戦した戸井が信長(信雄)の軍門に下った身分を潔しとしていなかったのかもしれない、と想像する。殺気立った群衆の前で、領地、領民のために命の捨て場所を得たとの思いであったかと、思われる。
旧暦6月の出来事。毎年7月23日の命日には地元で供養が営まれる。立派に名を残した武将と言えるのではないか。享年24歳
2年前に訪れていたはずだと、記憶をたどったが、ブログに書いていたのは2008年2月で、4年以上前。検索でひっかかって分かった。
こういう記憶間違いが頻発してきて、「歳」といえば許されるのかもしれないが、いささかげんなりする。
当時も書いたが、戸井左近は、信長に滅ぼされた北畠の家臣で森本城主森本俊重の義弟とも言われている。地域が日照りにあったとき、中村川の堰を切ると、下流の農民が押し寄せたとき「命にかけても守る」と言った戸井左近に「それなら腹を切ったら手をつけず帰る」という下流の農民の前で、腹を切って堰を守ったとされる。
「命をかけても」などとうかつに言うものでもないとも思うが、北畠の防戦に参戦した戸井が信長(信雄)の軍門に下った身分を潔しとしていなかったのかもしれない、と想像する。殺気立った群衆の前で、領地、領民のために命の捨て場所を得たとの思いであったかと、思われる。
旧暦6月の出来事。毎年7月23日の命日には地元で供養が営まれる。立派に名を残した武将と言えるのではないか。享年24歳