日曜に訪ねた、赤木城址を書いてなかったので、少し書いてみようと・・・(写真)
保存整備事業がH16年度で終了し、近時は何度もテレビなどで紹介され、また「天空の城」などとも言われ(雲海ができる時があるらしい)、少し有名になった(続名城100選)城跡。
45年ほど前一度だけ車でこの周辺まで来たことがあったが、その頃は地図などで城跡があるのは知っていたが、何のための城なのか知らなかったし、歴史にも興味がなかった。山の中だし、砦程度と考えていた。
赤木城は、藤堂高虎が豊臣秀長に命じられ築城したと言われる。諸説あるが天正17年(1589年)築城で、北山天正一揆の平定さなかである。北山一揆は江戸時代の百姓一揆と異なり、年貢をまけて、と言うような経済闘争でない。支配体制への反逆で、支配側には天地を揺るがす大事、従って処分は凄惨を極めた。(刃向かうものはなで斬りにせよとの命が下っていた)
こんな山間僻地にこんな立派な石垣の城、何のために、の答えは全く軍事拠点。ただ、建物は瓦が見つかっていないことから、板葺き又は檜皮葺き程度の建屋であったという。
北山慶長一揆後の、慶長20年(1615年)城の修復に近在の村人を駆り出して行い、修復落成祝いに主だった村人を招き入れ、次々に捕縛、160人を1㎞ほど離れた田平子峠で処刑、という舞台となった。(慶長一揆では363人も処刑されているのだが、これはその後の事である。(いわゆる残党狩り))
赤木集落の北2km に平谷集落があり、そこに「三介地蔵」と言うのがある。地蔵様は今回見なかったが、三介は慶長北山一揆に加担したとされ、田平子峠で打ち首(さらし首)、妻子5人は平谷でやぐらに縛られ、下から槍で突かれたという・・・。
その年、大阪夏の陣で豊臣方が滅び、江戸幕府により、一国一城令がだされ、赤木城は廃城となった・・・。