自転車のサドルの上で・・・

サドルの上での気ままなひとりごと

武備塚

2024-07-14 | Weblog
 s55年刊行の「鈴鹿市史」によれば、亀山藩は加佐登の白鳥塚、能褒野塚と藩内にある中で長沢の「武備塚」を日本武尊の陵として決めていた。平安時代初期の10世紀の『延喜式』では、天皇陵と並んで「能褒野墓 日本武尊 在伊勢国鈴鹿郡 東西二町南北二町 守戸三火因(火辺に因)」と記され、平安初期には約200m四方、墓守として3軒あったとこが記されている。
 だが、現在はその場所は諸説ある。本居宣長は3か所のどこかは断定せず、白鳥塚を有力視していた。
 明治12年、「内務省は突如として先の所説を退けて、…王塚(丁子塚)(現在の能褒野神社地)を尊の陵墓に指定した」と市史は書く。
 元々、古事記、日本書紀には、能褒野にて尊が死に、大和の方から妃が来て墓を作ったと記載され、円墳であったとも記憶しているが・・・。明治政府は権威付けに鈴鹿川沿岸地域に数百あった古墳の中で一番巨大な墓(前方後円墳で長さ90m)を比定したに過ぎないのではないかと私は思っている。
 今では、武尊は数人の皇子、貴族の総称のように考えられており、架空の人の墓探しも意味を持たないのかもしれないが、その中の一人がこの地で亡くなったという事実があったと思うのもロマンである。
 ということで、昨日のサイクリング。再度、長沢の武備塚(長瀬神社)へ行ってみる事に。見出しの写真は宝冠塚から宝装塚を望んでいる。旧306号沿い。武備塚は径25m高さ3m程度の小さな円墳(下の写真)。1729年、亀山藩?から能褒野山陵社地として二町四方、宝冠塚に八間四方、宝装塚に十間四方の土地を寄進されている。
 神社参道も江戸時代に整備されたものであろうと・・・思いながら、伊船集落から南畑へ抜け、県道11号で両尾へ抜け、「穴虫の郷」へ立ち寄ることに。
 今日は「蓮花祭り」の日で、ちょうど来賓挨拶の最中だった。手前の蓮池は満開で、見事以前のように花が多く、再生した感じ。今季3度目なので、花の状況を確認して、早々に帰宅の途へ。走行51㎞。
(武備塚)

(穴虫の郷)

 
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