そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

『パリ20区』と大津いじめ事件

2012-07-09 23:32:28 | Society
先日、CATVで録画しておいた、2008年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作『パリ20区、僕たちのクラス』を観ました。

パリ20区にある中学校のクラス担任と問題児揃いの生徒たちが繰り広げる教室模様を、ドキュメンタリータッチで撮った作品。
主演で担任の国語教師役のフランソワ・ベゴドーが実体験に基づいて書いた小説が原作になっているとのこと。

観ていてちょっと意外だったのは、フランスの学校というのはけっこう権威的なのだな、ということ。
担任教師はかなり高圧的な態度で生徒たちに臨んでいる。
教師に対する言葉遣いには厳しいし、教室に入ったら帽子を脱げだとか、「座れ」と言われるまで座るなだとか、口うるさい。
そして、反抗的な生徒たちも、そういった権威的な命令には(不服そうな態度は見せながらも)あっさり服従するのです。

体育会的縦社会での「絶対服従」とは少々趣きが違う。
学校が「制度」であることが教師・生徒・保護者の間の共通認識となっており、その「制度」を維持するがために「権威に従う」ことが暗黙のルールになっているのではないか。
そんな雰囲気を感じました。

「制度」という秩序を尊重することが、社会の構成員たるひとりひとりの利益になるということに対する理解が、隅々まで行き渡っているのだなあ、と。

もう一つ、印象的だったのは、授業中にトラブルを起こして教室から出て行ってしまった黒人少年が、学校の懲罰委員会にかけられるシーン。
担任教師がクラスの女子生徒たちに対して侮辱的な表現を使ってしまったことが、黒人少年が暴発するきっかけになったのですが、校長は担任教師に対して、懲罰会議に提出する報告書に侮辱的な発言をしたことを書くように指示するのです。
そして、担任教師はその指示に従う。

これも同じ。
校長も担任教師も利己的な保身に走るよりも、公正な懲罰委員会という「制度」を維持することによる長期的利益を優先したからこその行動のように思えます。

で、ここでどうしても比較してしまいたくなるのは、今たいへんな議論を呼んでいる大津市の中学校におけるいじめ自殺の件。
担任が見て見ぬふりをした、学校や警察、教育委員会ぐるみで組織的に隠蔽したのではないかと巷間言われています。
それらがどこまで事実なのかはわかりませんが、やっぱり日本の学校って普遍的な「制度」ではなくてローカルな「コミュニティ」なんだよね。
ローカルに閉じているから、そのコミュニティに属する最大多数が傷つかないような「落とし所」を探そうとする力学が働いてしまう。

もちろんフランスの中学校が全て『パリ20区』みたいであるかは分からないし、フランスにだっていじめはあってそれを苦にして自殺する中学生だっているに違いない。
学校が日本的な「コミュニティ」であることの長所だってあるし、だから一概にフランスが優れていて日本が劣っていると言いたいわけではない。

だけど、日本の学校生活からいじめによる自殺のような痛ましい出来事を無くすためには、よりドライで機能的な「制度」的アプローチが必要だよな、とは思うわけです。
学校・教育委員会・警察といった閉じた「コミュニティ」に任せていては絶対に解決できない。
いじめの被害にあった生徒が逃げ込むことができる第三者的な「駆け込み寺」が必要。
「駆け込み寺」は、学校が属するコミュニティからは離れたものでなければならない。
それこそ裁判員みたいな無作為抽出で選ばれた一般市民でも十分に機能が果たせると思うのですが。

文科省の役人にはそういう「制度」づくりにこそ力を注いで欲しいな。

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ローラン・カンテ,フランソワ・ベゴドー,フランソワ・ベゴドー
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