そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

『死ぬということ 医学的に、実務的に、文学的に (中公新書)』 黒木登志夫

2025-02-23 23:29:00 | Books
著者は、日本癌学会会長や岐阜大学学長なども務めた経歴のある医学者。臨床経験はほとんど無いとのことなので、医者というより医学者と呼んだ方が相応しいように思う。なんと1936年生まれで米寿を迎えているのだが、ユーモアも含んだしっかりした筆致で、インテリジェンスを感じさせる文章。死生観に関する短歌・俳句・詩が多数引用されている点でも格調高い。

前半から中盤にかけては、日本人の死因の多くを占める癌と循環器疾患、多くの人が罹患し苦しんでいる糖尿病、そして認知症について多くの症例を紹介し、医学的な説明が為される。

癌は恐ろしい病気だが、多くの場合年の単位で進行し、最後の段階に至るまでは日常生活がな可能なことも多く、残された余命を有意義に過ごすことができると著者は指摘する。
これに対して、虚血性心疾患や脳卒中などの循環器系疾患は突然死が多い。世の中では「ピンピンコロリ」と突然死するのが理想の死に方という考えの人が多いが、自分自身も、遺される家族も心の準備が全くできておらず、愛する人たちにお別れも言えないような死に方が良いはずがないというのが著者の意見である。

そして、老衰死、在宅死、孤独死、安楽死、終末期医療など、老いと死にまつわるトピックが取り上げられる。
介護保険制度が整備されたことにより、自宅での看取りが増えるとともに、胃ろうのようや過剰な終末期医療を行わない考え方が浸透することで「自然の死」が受け入れられるようになって、死因の診断における「老衰」が増えてきているという。
因みに、日本以外の国では老衰死は全く認められていない(WHOは死亡原因に病死と事故死しか認めていない)のだとか。
また、終末期における胃ろうのような強制的な栄養補給も、欧米の感覚からすると患者を虐待しているように思えるという。食べられなくなりどんどん痩せていくと家族は心配になってしまうが、「食べないから死ぬ」のではなく「死が近づいているから食べられない」と理解すべきであると。

最後に、著者は茨木のり子の詩を引用しながら死生観を語る。

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私が生まれる前、私はいなかった。私が死んだあとにも私はいない。われわれは、「無」から生まれ、数十年「生」を営み、数十回さくらを見た後、また「無」に戻るのだ。「無の世界」が何万年何十万年と続くのに、私の「生」はほんの一瞬の出来事にすぎない。そして、「生」は美しく輝く世界。それゆえに、われわれは「生」を大事にしなければならない。寿命が終わったとき、光り輝く「生」に別れを告げ、暗闇の世界に戻らなければならない。
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そうなのだ。死こそが常態であり、生は奇跡なのだ。奇跡だからこそ尊いのだ。

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